井上円了が、龍善寺(仁摩町宅野町)、満行寺(仁摩町天河内)で開会

明治42年琴ヶ浜へ
琴ヶ浜の円了

 東洋大学井之上円了記念 新編 全国巡講日誌 鳥取県・島根県編 井上円了学術センター編より

 **井上円了は、安政5(1858年)2月4日、新潟県三島郡越路町の慈光寺(真言宗大谷派)の長男として生れ、明治18(1885)年に東京大学を卒業し、明治20(1887)年9月に東洋大学の前身である私立学校「哲学館」をつくった。

 当時の諸学校が、法律、語学、医学などの実学を専門としていた中で、創立者は「すべての学問の基礎に哲学がある」と考え、哲学を中心とする学校としました。その哲学館は、大学に進むだけの資力のない人(余資なき人)、原書を読みこなせるようになるだけの時間的余裕のない人(優暇なき人)のための学校でもありました。
哲学館における学校教育のほかに、創立者が重視したことは、今日にいう「社会教育(生涯学習)」でした。日本の文明・文化を開化・発展させるためには、多くの人が自ら学ぶことでその知力を向上させることが大切であると考えたからです。当時は小学校などの教育が行われていましたが、学校を卒業した後の教育は特別な経済力の有る特定の人に限られていました。この点を打開するために、創立者は全国に赴き、各地の理解者とともに、講演会を開催するという社会教育の活動を展開しました。

 この全国巡講は交通手段が未発達な当時において、現在の47都道府県の全部にわたり、農村、山村、漁村、地方都市などで幅広く行われています。明治23年(1980)年から大正8年(1919)年まで(講演中に急逝するまで)続けられました。その記録は『南船北馬集』などの著書にまとめられ、現在に残されております。**

 明治24(1891)年6月9日 晴れ。朝、大森を去り大国村<現在邇摩郡仁摩町>に至り、安井好尚氏の宅にいこい、同氏の案内にて英和学校に至り一席の談話をなし、ただちに宅野村<現在邇摩郡仁摩町>に移り泉本家(泉文治氏宅)に宿す。当日、午後および夜分、竜(龍:が正しい)善寺において演説をなす。また、同所において懇親会あり。発起人は藤間要次郎、泉浅二郎、藤間一太郎、古和鍬一郎、竜野敬善、福間伍三郎、藤間茂二郎、同常八郎、同太郎、泉文治の十氏なり。館外員藤間覚二郎氏に面す。天河内村より小笠原学明、内垣一方二氏来訪あり。資金募集の件は藤間、泉両家に依頼す。

 同10日 晴れ。朝、小舟に乗じて辛島、麦島の奇景を巡視し、天河内村に移り満行寺において演説をなす。発起人は小笠原学明、山崎竹次郎、山崎東作、内垣一方の5氏なり。よってこの諸氏に資金募集の件を依頼す。これより乗船、温泉津に至りて泊す。宿所西楽寺なり。当夜、有志者の依頼に応じて宗教哲学を講演す。11日、午12時温泉津から乗船し郷田<現在江津市>に着す。宿所西暁寺なり。〜。