激しい冬の北西からの風も止んで、飛砂も無くなった琴ヶ浜では、恒例の砂の運搬作業が行われ、琴ヶ浜にも春がやって来た。鳴り砂は今ごろの季節の晴れ間の続いた後がいちばん感度のいい音を響かせてくれる。4月のような暖かさが3,4日続いた今日14日浜に行ってみた。お昼から、急に雨になって来たが、濡れた砂の、下の乾いた層は、浜全体、どこでも感触が良かった。
貝寄せ月だろうか、以外と貝が打ち上がっていた。ここにある松の木は、もう枯れるであろう。そして、最後の琴ヶ浜の松となる。 この風景を見ると、縮こまっていた身体が伸びるような気持ちになる。それは人間だけではなく、草花も芽を吹き、虫達も、鳥達もすべてがそうであろうとおもう。また活動的な季節が巡ってきた。しかし、鳴り砂はこれからが痛めつけられる季節になり、鳴り砂は何だか逆の心境に突入するかのようであると、想像してしまう。人は鳴り砂を楽しみ、初夏を迎え、夏を迎える。琴ヶ浜の鳴り砂は、ここを訪れる人にいろいろな思いを想像させてくれるものを与える。琴ヶ浜は、鳴り砂だけの楽しみではなく、季節の変化、情景の変貌がある。目に見えない心の思いを育ててくれるところでもある。
フグリ ミヤマカタバミ スミレ いろいろな人のとの出会いがあり、別れがあり、そこには楽しさ、ロマン、心の痛みもある。たくさんの人がやってくるが、人それぞれの思い、心境で琴ヶ浜に語りかけている。そんな思いを聞いてみたいと思う私である。そのような思いは、一年が過ぎる度に、一つ深い思い出の層の中に潜り込んでいくのを感じ、寂しくもあり、また懐かしくもあり、またその時に巡り合えないものであろうかと、思いを馳せる。思い出は砂の層に埋もれていくがしかし、琴ヶ浜に立つと、また奥深い砂の層からはい上がってくるのが思い出である。楽しかった想い出にはうれしさを噛みしめ、寂しかった想い出は静かな心になってしまう。いつになっても昔の想い出は砂の中の水のように染み出してくる。そしてまた止めることができない水として砂の中に埋もれていく。そんな繰り返しが心の鳴り砂に繰り返される。
琴ヶ浜に近いJR馬路駅は、数年前から無人駅となり、3年前には駅舎も無くなってしまい、ひっそりとした停車場になっている。そこにはヤツデと木瓜が寄り添い、懐古するかのように立っている。ソテツも中央に植わって、昔の面影を想像させてくれる。
降りしきる春雨の中で、今が盛りと咲き誇る木瓜の花を、雨に打たれながら、なぜか何枚も撮った。
JR馬路駅前に咲く春雨の中の木瓜の花。
スピードアップされた列車が静かに落ちる雨の流れを乱して馬路駅を通過していった。
乗車駅証明書。ホームに立っているボックスで得る。 3月14日14:50分頃通過した石見ライナー
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