45年ぶりの給食

手前:井上校長先生、奥:弟/三池藩塾、実家より60m
 福岡県大牟田市三池、私の郷里。実家から東へ100mのところにある大牟田市立三池小学校は創立130年を迎え、記念誌が発行された。そこに祖門さんの民話が載っている。その文を紹介した。小学校へ電話して申し込めば送ってもらえる.3,000円(送料別)

                    電話:0944-53-6021

 以下の紙芝居の絵は、2003.2.21、当時の校長、井上昌男先生を弟と二人で表敬訪問したときにデジカメ画像で頂いたものである。頂いたときの紙芝居の流れと今回の文章の流れが違っていたので、文を読みながらそれに紙芝居を合わせた。

 初市のこと、三池に残る歴史の数々,校長室で先生の話しを弟と2人で聞かせてもらった.また45年ぶりの給食まで頂いた。


旧講堂:懐かしい。床下、天井など潜りよく遊んだ

初市準備の生徒(校長室)/左端:弟


130周年誌より抜粋

祖門(そうもん)さん

中村寛典

祖門さんは、三池山のふもと、あじさい寺としても有名な定林寺(じょうりんじ)のお坊さんでした。
 「おはようございます。きょうも油買いですか。」「おはよう。朝から精が出るのう。」
 田畑で働く村人とあいさつをかわす祖門さんは油徳利をかかえています。きょうはどこの油屋へいくのでしょうか。朝夕のおつとめで仏様に光をあげる大事な油です。ろうそくは高くつきます。
 「いや、そげんいらん。すまんが、こっちの五合のとっくりに移しかえてくれんか。」店の小僧さんは移しかえますが、なにしろトロリトロリの油ですから、最後の一滴までとはいきません。徳利の内側には、少し油がついています。寺に帰ってそれを集めます。一回の量はわずかですが、集めると結構な量になります。祖門さんは徳利の大きさを変えたり、あちこちの店に行ったりして少しずつの油をとくしようとしました。
 往来をとおるときも人にいないところでは、ぞうりをぬぎ、はだしで歩き、ぞうりのすりきれるのを減らそうとするのでした。もともと武士や百姓と違って修業中のお坊さんですから、物の欲をすて、質素なくらしをするのがあたりまえでしょう。けれども、祖門さんはそれ以上にお金を使うのをひかえました。人はけちん坊とかげ口をたたきまいたが、それにはわけがあったのです。

 お寺の本道の屋根や、ろうか、板壁などのいたみがひどく、くさりかけています。修理するにはお金が要ります。毎年いくらかの決まったお金は入るのですが、祖門さんはできるだけ節約するこでお金を貯めているのでした。もちろんのこと托鉢(家々を回って経文を唱え、米やお金などの寄付を受けること)も朝のお勤めが終わったらすぐに始めて精を出しました。

 そんな努力を、30年も続けてきた結果、まもなく本堂の修理ができる見通しが立つようになりました。祖門さんは夢の本堂を思い描いて、今少しの努力を続けていました。
 そんなとき、藩の家老がやって来ました。「去年の不作で年貢が少なく、参勤交代の費用が足りない。どうかお金を貸してくれぬか。秋には利子をつけて返すから。藩のためにい願いいたす。これ、このとおり。」家老は深々と頭を下げて頼みました。
 祖門さんはあまりのしつこさに根負けしてしまいました。そして、藩のためになるなら、また、少しでも利子がつくならと思い、こつこつためたお金を貸しました。ところが、約束の秋になりましたが、返してくれません。一年たってもなしのつぶてです。さらに、また一年、また一年と延ばされます。祖門さんは何回も催促しました。ところが、家老はなんだかんだいって会ってくれません。そればかりか家来を通して、「しつこくいうと、寺におられんようにしてやる。」という始末です。
 それからというもの、祖門さんは絶望のどん底に落とされた想いで身も心も痛みました。そして、とうとう寝ついた祖門さんは、「七代までたたってやる。」と家老をうらんで死んでいきました。
 その後家老は、祖門さんの亡霊に悩まされ続けました。家族にもいろいろな不幸なできごとが起こりました。そこで、一族は供養塔を建てて、祖門さんの霊をなぐさめ、怒りをしずめたということです。
 今でも、その祖門さんの使った油つぼがあるということです。


(1)祖門さんは、三池山のふもと、あじさい寺としても有名な定林寺(じょうりんじ)のお坊さんでした。

 「おはようございます。きょうも油買いですか。」「おはよう。朝から精が出るのう。」田畑で働く村人とあいさつをかわす祖門さんは油徳利をかかえています

(2)きょうはどこの油屋へいくのでしょうか。朝夕のおつとめで仏様に光をあげる大事な油です。ろうそくは高くつきます。
 「いや、そげんいらん。すまんが、こっちの五合のとっくりに移しかえてくれんか。」店の小僧さんは移しかえますが、なにしろトロリトロリの油ですから、最後の一滴までとはいきません。

(3)徳利の内側には、少し油がついています。寺に帰ってそれを集めます。一回の量はわずかですが、集めると結構な量になります。祖門さんは徳利の大きさを変えたり、あちこちの店に行ったりして少しずつの油をとくしようとしました。

 (4)往来をとおるときも人にいないところでは、ぞうりをぬぎ、はだしで歩き、ぞうりのすりきれるのを減らそうとするのでした。

(5)

(6)もともと武士や百姓と違って修業中のお坊さんですから、物の欲をすて、質素なくらしをするのがあたりまえでしょう。けれども、祖門さんはそれ以上にお金を使うのをひかえました。

(7)人はけちん坊とかげ口をたたきまいたが、それにはわけがあったのです。

(8)けれども、祖門さんはそれ以上にお金を使うのをひかえました。人はけちん坊とかげ口をたたきまいたが、それにはわけがあったのです。 

(9)お寺の本道の屋根や、ろうか、板壁などのいたみがひどく、くさりかけています。修理するにはお金が要ります。毎年いくらかの決まったお金は入るのですが、祖門さんはできるだけ節約するこでお金を貯めているのでした

(10)わらじや衣のほこりびも自分で直しました。

(11)もちろんのこと托鉢(家々を回って経文を唱え、米やお金などの寄付を受けること)も朝のお勤めが終わったらすぐに始めて精を出しました。

(12)そんな努力を、30年も続けてきた結果、まもなく本堂の修理ができる見通しが立つようになりました。祖門さんは夢の本堂を思い描いて、今少しの努力を続けていました。

 (13)そんなとき、藩の家老がやって来ました。「去年の不作で年貢が少なく、参勤交代の費用が足りない。どうかお金を貸してくれぬか。秋には利子をつけて返すから。藩のためにい願いいたす。これ、このとおり。」家老は深々と頭を下げて頼みました。祖門さんはあまりのしつこさに根負けしてしまいました。そして、藩のためになるなら、また、少しでも利子がつくならと思い、こつこつためたお金を貸しました。

(14)ところが、約束の秋になりましたが、返してくれません。一年たってもなしのつぶてです。さらに、また一年、また一年と延ばされます。祖門さんは何回も催促しました。ところが、家老はなんだかんだいって会ってくれません。そればかりか家来を通して、「しつこくいうと、寺におられんようにしてやる。」という始末です。

 それからというもの、祖門さんは絶望のどん底に落とされた想いで身も心も痛みました。そして、とうとう寝ついた祖門さんは、「七代までたたってやる。」と家老をうらんで死んでいきました。

(15)その後家老は、祖門さんの亡霊に悩まされ続けました。家族にもいろいろな不幸なできごとが起こりました。そこで、一族は供養塔を建てて、祖門さんの霊をなぐさめ、怒りをしずめたということです。

(16)今でも、その祖門さんの使った油つぼがあるということです。

三池の里,三池小学校と定林寺

大牟田市三池の里紹介(三池小学校)
三池小学校:私の遊び場だった
歴木中学校:2年までここの中学
田隈中学校:生徒が増えて,歴木中学校から別れた.第1回の卒業生です!
県立三池高校:私の卒業した高校
県立大牟田高校:高校駅伝の強い学校
三池公園:桜が非常に奇麗な公園である.ここもよく遊びに行った.
茅堤:息子と釣りに行って大きな鮒を釣った思い出がある.息子は嬉しくて洗面器の魚に顔を近づけて戯れていた.「池に返してやりなさい」とおばあちゃんに言われ,一晩楽しんで,次の日元の池に放しに行った.私のこどもの頃のことを見せてやりたかった.

<<使い方>>
* 四隅の枠内でマウスボタンを押しているとその方向に移動します。
* 地図上をクリックすると、その位置が中央に移動します。
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※ 移動先でポインターを置くと手のマークに変わるところがあります(Win).そこにはHPがリンクし,そのところを紹介しています.
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※ このシステムは,Netscapeではお楽しみできません.


このページはQPONさんからソースを借用しております。
地図は国土地理院1/25000を使用しています。

※紙芝居の絵の筆者は,定林寺の近くに住む,****(後で調べます)という方です.


三池小学校定林寺近傍の地図YahooMap

 

細道を抜けて普光寺近辺へ良く遊びに行った.小学生の頃までは定林寺は知らなかった.
小学校と私の実家の位置


2003年2月21日、普光寺の紅梅