先輩から、昔を懐かしむ貝塚浜の詳細な話しが送られてきた。貝塚浜に鳴り砂の浜を知っている人はもういなくなってしまったかも知れない。しかし、貝塚浜での子供の頃の貝塚浜での生活、遊び、そして鳴り砂の響きとその振動が先輩の記憶の中にはありありと残っているのである。だが、半世紀が過ぎて、貝塚浜の自然は大きく変わってしまった。いや、変えられてしまったのである。
送られてきた昭和初期の風景画(下述)を見ると、正しく白砂青松の自然の浜を活用した様子がうかがえる。このようなところだったら、きっと素晴らしい鳴り砂の音を体験することが出来たことであろう。海も奇麗だったろうし、浜もたくさんの貝が散りばっていたのであろう。光り輝く砂浜が浮かんでくるようである。
岬が海を囲み湾になった様子伺える。砂はその湾に留まっていたであろうことが想像でき、そのことは鳴り砂になる為の必要条件である。琴ヶ浜と同様に素晴らしい洗浄作用を有する浜であったことであろう。そのことは昭和20年代まで続いていたのに、浜は一機に変貌してしまい、それらの自然を失ってしまったのである。もう、ここには鳴り砂が生まれることはありえない。先輩が云うように、砂は埋められてしまったのである。
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送られてきたメモ入りの地図を清書した*浜の位置、当時の寺領(寺内町)、旧26号、旧紀州街道、旧防波堤、旧ニチボウ貝塚の位置など
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先輩はつぎの手紙のように昭和初期の貝塚浜の様子を懐古している。全文を紹介した。
『今から如何してそのようなことを想像できるのであろうかと思われるほどこの半世紀あまりで変わりました。
和泉の国八景は
茅浦遠帆:茅浦=大阪湾
高師浜月:高師浜=百人一首「音に聞く高師浜のあだな浪はーー」とある高石海岸
牛滝江楓:牛滝=和泉葛城の山裾にある岸和田側の滝
葛嶺峰雲:葛嶺峰=和泉山脈主峰葛城山
貝塚村雨:貝浦=貝塚の浦
近義夕照:近義=貝塚の南西地区のこと
日根暮雨:日根=日根野のこと、九条家の荘園、泉佐野の山手地区、JR関空線起点
須磨漁火:対岸の神戸須磨辺りのこと
私の幼かった頃は、こんな風景が残るところでありました。白砂青松が続き穏やかな気候の地でした。京、堺、大阪、大和に近く人々の生活も豊かなところでした。和泉木綿から近代紡績、織布といち早く取り入れたところでもありました。
ここは江戸時代、岸和田藩の中にある寺領で寺内町でした。(城まで徒歩20分足らずですが)家康を助けたお礼に頂いたところですが、紀州藩と岸和田藩の目付けの役かな?狭い街中での我々の遊び場は、自然と海であり、砂浜でした。三角ベースの野球であり、魚や蟹の捕獲であった。もちろん泳いでいる姿を見て採りました。砂浜には、唱歌でお馴染の干し網があり、船がソロバンと称する上に陸揚げしていました。我が家も祖父に代までは漁師で、幼い頃は網小屋には出稼ぎの漁師たちが寝泊まりしていました。浜は、我々の生活の場であった。だから四季折々に変化する茅の浦和を見ながら育ってきました。
三輪先生が「砂が泣く」と言い出した頃、そうですね貝塚の浜でもと言いかけると、難しい顔をされました。その頃は、一番大阪湾が汚れていた頃で、想像が出来なかったのでしょう。我々より上の先輩でも知る人は少ない。今でも汚れた浜しか記憶に無いらしい。今は奇麗だが。
さて、砂が鳴いたのは、冬西風(師走の八日吹きと呼ばれていた)が止み、晴れた日の砂の吹きだまりを踏んだ時キュキュキュと鳴いていました。仁摩の浜で足の裏から鳴く砂の響きに、幼い頃の自分に戻っていることに気付きました。でも今から誰が想像でき、信じようか。この地の何メートル下から出る砂を調べて見れば良いのでしょうが少し遅すぎました。この地の山は和泉砂岩と呼ばれる脆い岩が多く(墓石は風化しやすく文字の判別に苦労します)産出します。ここは、二級河川ですが津田川と近木川に挟まれた砂浜でした。山から豊富に砂が運び込まれてきたのでしょう。潮の干満で遠浅になったり、何十メータ間隔で砂の洲が出来た。我々の泳ぐ練習には役立ちました。その砂が冬海岸に打ち寄せられ、風に吹き飛ばされて洗浄効果が発揮されて鳴き砂へと変化したのでしょうか?白く光り透明な長石の長方形の粒子が混じっていた。
旧隣村 北近義村 脇の浜昭和初期の日本画入手しましたので少しでもイメージが湧けばと思い添付します。写真好きの大叔父の風景写真見当たりませんでしたのでーー
正月のお爺さんの戯言としてお聞き下さいまして有り難うございます。
近所に仁摩出身の方がおられます。縁とは、不思議ですね。何処に誰がいるか分からない。
お体に十分注意してご活躍されることをお祈りします。H18.1.頃
〜以下、手書きの手紙〜
前略御免下さい。
突然の手紙で申し訳ありません。
この秋の校区会長会の旅行は石見銀山と温泉津だそうです。今年は未だ参加する義務が残っているらしいのでOKをだしました。バスで米子からR9経由らしいです。寄れたら良いのですが・・・
何年か前正月に「たわごと」云ってそのままになっていましたネ。貝塚の浜と云っても狭い空間です。一応地図上で色付けしてありますので参考にして下さい。
泉州路では岸和田祭が来れば涼しく雨降りが多く、下駄祭と云っていたのですがどういう訳か未だ真夏日が続いています。これから十月中旬ごろまでは秋の祭で地車(だんじり)が出ます。地車も岸和田のまねで山地車がなくなりつつあるのが残念です。我が町は岸和田藩でない(日丁なの?)から夏祭りで、ふとん太鼓です。石山本願寺が信長に破れ紀州鷺宮へ逃げたが雑賀衆と対立し貝塚来た。その時町衆が喜び三日三晩踊ったのが「三夜踊り」であり、はしごに太鼓を載せて祝ったのが「ふとん太鼓」とか・・・
本願寺は二年あまり経たのち再び大阪の渡辺の地へ移り京都の東・西本願寺へとなる。この地の願宗寺は戦中まで東・西本願寺へ出入りしていたらしいーーー
我が町にも廻船問屋があり、北前線で北海道へうろうろしていたらしい。そちらの日御碕粗利で難破し供養のために願書を送ったらしい。昔の人々の方がづっとづっと活発でしたのですネ。今ここ泉州は時代の波に乗り遅れて久しい。まあ次の次の世代にまかせた方が良いみたいですネ。
Dr.志波様 H.19.9.18 鳥取せ』
ここまでが、頂いた手紙内容。この手紙は、前職場に送られており、手元に届くまでに時間がかかった。2007(19).12.25アップ。
機会があったら先輩にむかしを語ってもらいながら歴史の道を歩いてみたい。
昨年の情報URL
http://yspowder.hp.infoseek.co.jp/mininews/mininews.htm