一年計砂時計の製作記録

〜25年前の技術屋〜

 巧く分類されていないが、記録していた状態で私の記録というくらいでアップしました。

長編であり、呼んで頂く方が居られたらと思う。

これをまとめたのが、本l世界一大きな砂時計(中国新聞社発行)である。

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砂時計と遊ぼう 6

まえがき 6
[時間観] 7
[生活の中の砂時計] 7
[砂時計の時間と自然の時間] 9
[仁摩町の砂時計] 10
★砂時計の誕生★ 10
★砂時計の条件検討★ 10
★容器の検討−国際協力−★ 11
★砂時計とピラミッドの砂は鳴り砂★ 11
[仁摩町の人情と仁摩元年] 12
★空間と時間の移動★ 12
★寝台列車の砂時計★ 13
★もう一つの自然★ 13
★仁摩町にお邪魔する★ 14
★急ピッチの建設★ 14
★集団出勤と集団登校★ 15
★気分転換★ 15
★溢れでる電気★ 15
★食卓の柿★ 16
★あたらしい人情にであう★ 17
★朝方のビールで乾杯★ 17
★基礎研究の報告会★ 17
★仁万のお正月★ 18
〔砂時計が終わって得られたもの〕 19
★母の見送り★ 19
〔高所砂投入〕 20
★異物混入、再度砂を抜く★ 20
★二度とないであろう14mの展望で思うこと★ 21
砂暦の完成までの記録 21
1987年8月 22
1987年9月 23
1987年12月2日 23
1988年1月 23
1988年3月 23
1988年4月 23
1988年5月 24
1988年6月 24
1988年10月28日 24
1988年11月 24
1989年1月 24
1988年6月 24
1988年10月28日 25
1988年11月 25
1989年1月 25
1989年2月 25
1989年4月 26
1989年6月 26
1989年10月 26
1989年11月 26
1990年1月 26
1990年3月 27
1990年5月 27
1990年6月 27
1990年10月 28
1990年11月 28
1990年11月15日 28
11月29日(木) 28
11月30日(金) 28
12月1日(土) 29
12月2日(日) 29
12月3日(月) 29
12月4日(火) 29
12月5日(水) 29
12月6日(木) 29
12月7日(金) 29
12月8日(土) 29
12月9日(日) 29
12月10日(月) 30
12月11日(火) 30
1990年12月24日 30
1990年12月31日 30
共同研究 31
競争の原理− 仙台砂時計と金子硝子工芸 − 32
1991年の砂暦 32
1992年の砂暦 33
1993年の砂暦 34
1994年の砂暦 34
砂時計つくり 35
[悪戦苦闘の砂つくり] 35
★よく観察する 35
★砂の大きさを揃える 36
★砂の表面を水できれいにする 36
★異物を取り除く 36
★埃は砂の中に入ってもよい 37
[網は神様] 37
[一年計砂時計の形と大きさ] 38
[砂時計のスケールアップとは?] 39
[”成功の芽”から”成功の確信”] 40
「ずいぶんまわり道をしたものだ」 40
[できてしまえば、コロンブスの卵!] 41
[成功と失敗と技術者の責任感] 41
砂時計の放映で近況を友に 42
NHK TV列島にっぽん特集 46
砂時計の疑問 51
砂時計とこころ 56
ゆとり 57
後悔 57
努力 57
目標 57
思い出 58
砂時計と地球環境保護 58
時 間 を 見 失 っ た O L 58
自然に生きるとは何か 59
時間とは 59
結婚と砂時計 60
永遠と瞬間 61
日だまりの時間 61
生きているということ 63
最後の砂時計 63
砂 時 計 と 時 間 64
[問題解決の方法論] 65
[日常の粉屋が砂時計を創れる?] 66
[創意工夫] 67
−予算のないなかでの実験装置の工夫− 67
[創造をモノにする] 68
[だれもやっていないなら、勘を使うしかない] 68
[経験しないと先には進まない] 69
[臨機応変] 69
−14m 高所、トラブル発生。年の瀬でのアイディア。− 69
[観察と方針変更] 70
[観察の重要さ] 71
−蝿が滑り落ちるガラス窓− 71
[妥協を許されない砂時計つくり] 73
[もう一つの妥協] 73
[砂暦に関する報文] 74
あとがき 74
1995年の砂暦 76
§.幼馴染みと時間 76




砂時計と遊ぼう

   一年計砂時計と技術者の思い 


まえがき


 砂といえば、思い浮かべるのは砂時計。砂時計は単純である。しかし、その砂は美しいくなければ流れない。限られた時間で、しかも終わることのない時間を現わしているのも砂時計である。一つの目標を達成し、新たな目標をまた立てるのが砂時計の時間なのである。
 自然が仁摩町に残してくれた小さくても美しい馬路、琴ケ浜の海岸、これを保護すると同時に、町の活性化の象徴としてつくられたのが、一年を刻む砂時計である。人が集まり語りあう仁摩、若者が誇りをもてる仁摩、そこで、未来に希望がある人生にして、あらたな時のスタートを切ったのである。
 ふと気がつくと、わたしは、ふるさとを離れて多くの時間が過ぎていた。その時間の経過のなかで一年を周期に流れる砂時計の研究ができたことはわたしの大きな喜びである。こころの中の50年の想い出の一粒の砂として残るであろう。その砂時計の研究に携わって得られた数々の想い出の砂は、時間が経つにしたがってすり減り、薄らぎ、そしてわたしのこころの中で消え去ってしまうかもしれない。あたかも砂時計から一時に流れる砂に見とれている想いのように。砂時計の砂は、いつでも同じように流れ、その一瞬の時を見せて流れている。
最澄は、次のように言っている、
 「三際の中間に修する所の功徳は、独り己が身に受けず、普く有識に回施して、悉く無上菩提を得しめん」
 三際は、過去・現在・未来のことで、過去から未来に至る無限の時間の間で、自分が修行して得たところの功徳は、自分一人のものにはしない、必ずそれは、世間の有識、すなわち心を持つもの、一切衆生に施して、人びとに無上の悟りを得しめたい。
 短い時間ではあったが、わたしは仁摩町民になった気持ちであった。世の皆さんに仁摩町の砂時計と、その砂時計を通して、仁摩の人情、人間のこころの変化を知ってもらい、後世の方にも伝えでもらいたいという気持ちと同時に、砂時計技術担当者としての私自身の記録としても残したいと思ってワープロのキーを叩いた。早くしないと私の砂時計の砂がなくなってしまうと思うと、いてもたってもいられない気持ちで...。

[時間観]

 わたし達もさることながら自然界新羅万象は生滅変化し、永久不変なものは何一つない。「ユク川ノ流レハ絶エズシテ、シカシマタモトノ水ニアラズ」方丈記や「祇園精舎ノ鐘ノ声、諸行無常ノ響キアリ。娑羅双樹ノ花ノ色、盛者必衰ノ理ヲアラハス。オゴレル人モ久シカラズ、只春ノ夜ノ夢ノゴトシ。タケキ者モ遂ニ滅ビヌ、ヒトヘニ風ノ前ノ塵ニ同ジ」平家物語などは日本人の時間観の代表的な表現で、無常観をあらわしている。
 砂時計は、考案されたころから形をかえることなく今に続いている。砂時計のその時間はもとの時間ではない。砂時計は何度繰り返し倒置しても同じ時間の大きさを与えてくれるが、そのように創られた自分の時間は、もう、もとの時間ではない。繰り返しているように見える砂時計の時間は一つの方向をもって流れているのである。不思議な砂時計、砂は同じでしかも同じ時間の大きさ、同じように思える時間なのに、その時間はもう先程の時間とまったく異なっている。「砂時計とは、時の流れを教えるものだ」と言った小学生がいた。ハッと思ったが、彼は時間が動的なものであるということを、砂時計の砂の流れから感じ取ったのである。時間が見える、時間の動きというものが砂時計の砂から見えてきたのである。目には見えない不思議な時間が、自然の砂の動きからその小学生には見えてきたのであろう。砂時計の砂の流れを見た時に、刹那の時間を感じ取ることができる。砂時計はそのような力をもっており、時の流れが刹那の連続であることを教えてくれる。正しくその小学生のことば通りである。

 度々「砂時計で今の時間が判りませんね」と質問して来る人がいるが、「時間」が判らないのではなく、今の「時刻」が判らないのである。時は、時間と時刻がある。ある行動の始まりの時刻を知らずして、どうして今の時刻を砂時計で知ることができるでしょうか。その行動の経過は、砂時計の砂の量で知る。砂時計の砂が半分落ちた時が、その行為が半分が過ぎた時なのです。砂時計の時間とは、そのような時間なのです。砂時計は、行為をその大きさで制限しているのです。時間の形が違う。これは宇宙のすべてのものに当てはまることである。流れは変えられない。でも、時間が決められていなかったら、また集団行動がなければ、誰でも時間を自由に決められる。砂時計で、その自由に決められるあなたの自由な時間を創りましょう。
 時間は自分の中にある。時間は、その中で砂時計の砂のように止まることはなく、しかも二度と繰り返されない。その時間をどう使うか、後悔とするか、努力とするか、思い出とするか。徒然草の冒頭にある、「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、...云々」のように過ごすか。「正しい時間の使い方とは、時間を肌身離さずみにつけていることであり、時間の配分に多大な関心を払うことである」は、コリン・ウイルソン編、竹内均訳『時間の発見』の中のことばである。


[生活の中の砂時計]

 砂時計はわれわれの生活の中にどのように入り込んでいるのだろうか。砂時計は14世紀後半のころヨーロッパで発明されたといわれている。
15世紀後半のドイツの版画家アルブレヒト・デューラー(1471−1528)の数多い作品の中には、砂時計を描いた有名な作品がある。<<騎士と死と悪魔>>(1513)、<<書斎の聖ヒエロニズム>>(1514)それに<<メランコリアI>>(1514)はデューラーの三大銅版画である。このころはキリストの影響が大きく、戦う戦士はつきまとう悪魔と死神にも戦わねばならないが、それらは実態のないものと砂時計のその時間はもとの時間ではない。
 死神はその戦士の残された時間が少ないといわんばかりの砂時計を手にしている。<<書斎の聖ヒエロニズム>>の版画は、聖人の観想的生活を象徴的に表現しており、実践と精神の2面にわたる理想的人間観を示しているといわれている。仕事に没頭している聖人の後の壁には、部屋で残り少ないその仕事の時間を表わしている砂時計が掛っている。<<メランコリアI>>憂鬱質(人生論の四性論の一つ)という題であり、女性を中心に描かれたこの絵は「この女性が無為でありながら、緊張の面持で虚空をみつめているのは、創造の霊感が降りてくるのを彼女が待ち受けていることを示しているとみられる」という。そのようなところに砂時計がまだ半分以上の時間を残して流れ続けているのは、静けさのなかでの長い時間を表現しているのであろう。(デューラー展−水彩・素描・版画−集より参照)
 日本では砂時計が江戸時代以前には使われていた記録が残ってなく、徳川家康の薨去(コウキョ:皇族、三位以上の人が死ぬこと)の後で元和二年(1616年)十一月ころ家康の遺産中の道具類を尾張、紀伊、水戸の三家に分配された覚帳に「すなとけい」の言葉が出ているのが最初といわれている。このころ機械式の時計がそろそろ発明されてくる頃で、そのときの砂時計は、機械時計の検定用として使われていた。砂の落ちる時間は、その頃の機械時計の精度よりも数段高い精度であった。
 おもに砂時計は、修道院での説教、大学の講義、航海時の船乗りの勤務時間、茶の湯など比較的短い時間の時の経過を知るために用いられた。
 最近は、キッチン砂時計やサウナ風呂など、1分計や3分計としてのインテリヤなどに利用されている。また最新のハイテクを駆使した液晶で砂時計の動きを表現したものも売り出させている。
 時間の可視化ということから、いらいらしているサラリーマンの気持ちを、僅かな時間であるがほっとした気持ちにさせようとした使われ方がされている。たとえば、時を待つのに時間を見るものとして、大分市の14の交差点に設置された信号機は、待ち時間を10等分して砂時計式に表示した電光掲示板をつけ、あとどれくらいで信号が変わるかがわかるそうである。思いやりの信号機というものである。また、同じようにエレベーターの待ち時間に砂時計をモチーフとして使われてもいるビルもあるそうである。わたしも一度見てみたいものである。
 砂時計の形から見たものとして、ニューヨーク・ファッション・デザイナーのオスカー・デ・ラ・レンタは、リッチで優雅にモダンなデザインとして、ウエストを絞ってヒップラインの丸みを砂時計のイメージとして捉え、その印象を上品で、しかもセクシーに表現している。生活空間としての建物は重要な場所である。住宅事情もあって、細長い土地にその両側は3階立てで、その間は両方の部屋に陽が差すように低くしている。砂時計を横に寝せた形である。
 宇宙に目を向けてみると、5年前に発見された、銀河系の隣の大マゼラン雲で発見された超新星「SN1987A]の周りに、不思議な8の字形が現われているという。解析の結果、超新星をふくむ「砂時計」形の構造ということである。超新星の観測は、アメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げたハッブル宇宙望遠鏡は1990年に直径1.3光年のリングを見つけているが、これは、ちょうど砂時計のくびれの部分の輪といわれている。 また、医学の分野では、HOUR-GLASS -STOMACHという慢性胃潰瘍の病気があり、それはX線で診ると胃体部の弯入により砂時計のような形を呈するものである。弯入のしかたにより、B型砂計胃とX型砂時計胃と呼ばれているものがある。

 最近では、コンピューターでの待ち時間に砂時計の絵が出てくるものがある。Machintosh,FM-TOWNS-Vなど,1994.11.
 その他、宣伝や商品として使ったものも。その一例として、つぎのようなおもしろいアイディアが出され、砂時計がそれぞれに利用されている。

 1)液晶砂時計プレアデスの商品。¥5,974 (税込み)液晶とマイコンを使った高性能な砂時計.1993.6.
 2)アースデー、ポスター 環境破壊が深刻化するなかで、地球を砂時計と見立てて、そこから流れでる油で汚れていく砂時計の砂。痩せ細った海の生き物が悲しそうに砂時計を眺めている。1991.4.
 3)「あっ、番号を間違えた。チャリン。また、長電話をしてしまった。チャリン、チャリン」電話の無駄をしっかり見守る。SONY液晶付きコードレス留守番電話の宣伝 1994.6.16 .朝日新聞
 4)進研ゼミカタログ、1993.4、志望大学合格のためにこの一学期にやるべきこと。やらなくていいこと。入試まであと9ヶ月。ムダなことは、やっていられない。受験勉強の効率化を図り、実戦力を身につけて現役で有名大学へ
 5)150ミクロンから600ミクロンのプラチナの粉をもちいた時価8000万円の砂時計。宝飾品メーカーのナガホリが二部上場を果たした記念に販売促進用展示物として作ったものである。1989.8. 2キロが5分で落ちきるというが、さぞかし美しい輝きを放ちながら流れていることであろう。わたしも一度見せてもらいたいと思う。
 6)砂時計を形取った容器に芳香剤をいれて流れながら香を発する。1995.6.テレビの宣伝。
 7)NHKテレビ中国語基礎講座でバックのインテリアに砂時計が
飾ってある。1995.5.12

 [砂時計の時間と自然の時間]

 1992年も7月20日、庭先にある鉢植の月下美人が華美な花を四輪つけた。昨年もそうしたように、さっそく部屋の中に取り入れて雲花を楽しむことにした。開花の二時間後には、甘い香りが部屋一杯に広がる。この植物は、艶やかな洋蘭と対照的に、夕方から開花を始めその夜の内に終わってしまう短命花である。侘しさを感じさせる日本人好みの代表的な花である。わたしの植物ノートを開いてみた。驚くことに、昨年は7月18日夕方7時30分から開花が始まっている。同じように香りが出始めているのも開花が始まってから2時間後ではないか。その一瞬と思える咲く時期を見逃してしまえば、砂時計の砂が流れ終わってしまうように、大輪華の光輝さを魅了することはできない。
 昨年、島根県迩摩郡仁摩町に一年間流れ続ける大きな砂時計を作らせもらった。砂時計は機械的な循環する時計や電池仕掛けの時計とは違って、重力という自然の力を利用して一方的な時間の大きさを砂の容積で知るために用いられる。この大きな砂時計の砂が流れ終わり、全ての砂が下の容器に溜った時が、仁摩町の一年である。丁度、月下美人が、眩しいような光彩な華が咲く時が来るその時は一年が過ぎてからのように。
  現在の時間はめまぐるしく過ぎ去っていることを教えてくれるのも砂時計である。確かに、砂時計は時の動き、命の限界というものを教えてくれる。砂時計をじっと見ていると、流れた砂の一粒一粒に自分の好みの時間をどのように過ごし、その時間に対して何をなしてきたが回想される。そして次の時間が、また始まるのだということを感じとれる。あたかも繰り返されているように思うその時間は、いまの砂の流れが先のおなじ砂時計の経過時間に流れた砂と同じものではないのと同様に、全く違った時間である。過ぎ去った人生はとりもどすとができない。「改まった年を迎える」ということは、とりもなおさず砂時計の砂の流れなのである。そこにまた次の希望が沸いてくる。

[仁摩町の砂時計]

 平成3年元旦、世界一大きな砂時計が砂を落とし始めた。そしてこの砂時計を納めている仁摩サンドミュージアムが平成3年3月3日にオープンした。出席は出来なかったが式典は盛大に行なわれたという。
 島根県の西部に位置する仁摩町は、日本でも有数な鳴き砂の浜、琴ケ浜のある風光明媚で、人口5600人の静かな町である。山が海岸に迫った景勝の地で、琴ケ浜は今なお自然の姿を残しており、その砂は、非常に美しく、砂浜を歩くと砂がキュッキュッと鳴くのである。くすぐったいような感触が足の裏に伝わってくるのでまた楽しい。近くには大山を中心とした鳥取・岡山・島根三県にまたがる大山隠岐国立公園、また大国主命を主神とし「稲葉の素兎」の神話などで知られる出雲大社があり、観光の地としても恵まれたところである。このような美しい自然と暖かい心情が今なおしっかりと存在し続けている。

★砂時計の誕生★

 この町に5年前の1986年にこの大きな砂時計をつくろうという話しが生まれた。泉道夫町長は、町の活性化のために世界一大きな砂時計を・・・美しい自然の仁摩町琴ケ浜の砂で・・・と。ところが、一年計のガラス容器、一年分の砂はどうするか、そしてこの計画に町の人の賛同を得ることができるかなど、解決しなければならない数々の問題が大きく立ちふさがてきた。このような時に同志社大学工学部の三輪茂雄教授が鳴き砂についての講演を仁摩町馬路でなさったのがきっかけで、この技術的な難問を三輪教授に相談された。「正直言って大変なことを引き受けたものだ」と言うのが三輪先生の本音だったそうである。長い基礎研究の後、砂の精製の研究・開発の話しが持ち込まれたときはわたしも驚いた。三輪教授を監修とした砂時計大型化のための本格的な研究が始まった。

★砂時計の条件検討★

 市販の砂時計の砂はガラスビーズや鉄粉などが用いられているので流れが非常によい。砂時計にはさらさらとした砂を用いれば小さな孔(オリフィス)でも簡単に通過させることができるように思えた。砂時計は重力という自然の力を利用したものであるから砂も自然のものを使うことのこだわった。ところがわれわれは自然の砂の表面は普通は滑らかではなくしかも細かい粘土質や有機物などが付着しており、流れがよくない。自然の砂は、砂時計にとってよくない要因ばかりである。当然、粗大粒子や木屑、異物などの混入は絶対に在ってはいけない。これらの除去には粉体技術のノウハウの結集が必要である。さらさらの砂の性質となる条件を研究しなければならない。砂と砂時計の孔との諸条件の研究を始める。それらの各研究過程、開発過程にはだかる問題の解決策を折り込む為、三輪教授と幾多の議論・検討を行なってきた。
自然の砂1トンを用いて1年間流れ続ける砂時計をつくるということを基本としたので、砂を小さくし、孔を小さくしなければ、その条件を満たすことができないことが判ってきた。自分たちで苦しい条件を設定してしまったのである。砂を小さくするというのことは、網を使えば簡単であるが、砂、粉が小さくなると、技術的にいろいろ解決しなければならない問題点が出てくる。苛酷な条件での砂時計製作となる。
 この砂時計の主旨としては、琴ケ浜の砂を使うことが最適ではある。ところが琴ケ浜の砂は、粒が大きく、これを使って1年計にするには数10トンの砂が必要となることがわかった。琴ケ浜の砂を入れる砂時計は、膨大な大きな砂時計になり、現実的ではなく、残念ならが、琴が浜の砂を使うことはあきらめざるをえなかった。
 当初は3分や5分などの短い時間の砂時計でもなかなか完通させることが出きなかった。何とか1時間、1日、10日と次第に大きな砂時計にして行くと、今度は環境の温度変化の影響を大きく受け始め、それからは時間精度の向上のために、温度と時間についての研究が始まった。そのような研究の末、4年余りの歳月を費やして完成に持ち込んだのが、暮れも押し迫った29日であった。

★容器の検討−国際協力−★

  砂時計のイメージに大切な容器。一年計の砂時計となると大容器の製作が問題となる。泉道夫仁摩町長は日本の大手のガラスメーカーを飛び回ったあげく日本での製作を断念したという。先進国日本だと思うが、なぜできなかったのか、なぜこの結果になったのか思うとわたしは残念な気持ちである。聞くところによると、日本のメーカーも残念がっていることである。世界一の誰もやったことのないとてつもない大きな現実ばなれした砂時計であり、話だけの計画だと、誰もが信じられなかった結果なのであろう。企業では冒険という言葉の使用は禁止であるようだが、研究という考え方で進んで欲しかった。結局、容器の製作には、西ドイツ・ショット社(マインツ市)が担当した。この会社は、有名な光学レンズ、ツアイスなどを作っている従業員一万人余もいる工場である。さずがのショット社もこの大きさには驚き、この計画にはすぐには乗って来なかった。「日本人は何を考えているのだ。こんなもん作って何になる、気は確かか」というわけである。再三の説得でも作ってくれるという返事がもらえず、日本支社のマネージャーが町長と会って実際に進んでいる行動計画書を見てやっと本腰を入れて製作に掛かったのである。「よく判った。わが社でも初めての経験だが、西ドイツ・ショット社の名誉をかけても作る」というわけである。さすがのドイツ職人もこれだけ大きな、しかも、精確な砂時計の曲率の要求には苦労したらしく、満足のいくまで協力してくれ、更にもう一つの砂時計ができる数の容器を作ってくれた。今でもそれがミュージアムのフロワーに展示され、みじかにガラスの大きさを体験することができる。仁摩の砂時計が実現したのも西ドイツ・ショット社のこうした並々ならぬ協力と惜しみない努力があったからで、この砂時計の成功は国際的な成果といえよう。町長の苦労があった。

★砂時計とピラミッドの砂は鳴り砂★

 仁摩サンドミュージアムは、大小六基のピラミッド型をした三角形のガラスを組み合わせた総ガラス張りの建物からできている。最も大きなピラミッドは、21メートルもの高さである。建物の中心線は、正しく真北を向いており、この方向の決定には、冬の夜空、北極星をさがして行なわれたという(縄田稔:NIKKEI ARCHI TECCTURE,1990.8.6号、竹中工務店、松江土建JV)が、なんとロマンチックな建築であろうか。ふと気がついたことは、このピラミッドの頂点には、同志社大学の校章がはめ込まれている。実は、それは三角形のガラスの組み合わせから偶然にも幾何学的に出来上ったのである。ピラミッドを外から見た時に、ピラミッドという形よりも、まず飛び込んできたのは、母校の記章であった。そのとき、わたしは、嬉しさというものが心の中に生じたのを感じた。
 砂時計は、そのようなピラミッドの建物の中にあり、床から最高位置13.55メートル(実測値)の所の大きな空間に設置されている。1トン(正確には1003,376g)もの砂をまじかで見ていると、その大きな容器の中心部にある1ミリ以下の小さな孔から、今にも止まりそうな細い砂の流れを、時間の経過として感じとれるのが異様である。
だが、過ぎ去った時間を形作っている下の容器に作られた砂模様、砂の落ちていく上の壷にできる人間蟻地獄の不思議さなどを感じとることができる砂時計。少々残念なことは仁摩サンドミュージアムに来た方々がそのような砂時計の造形をまじかに見てもらうことができないことである。しかし、瞬間の砂の流をテレビのモニターで見ることが出きるので、いまという時間の経過を感じ取ることはできます。
 完成した大きな砂時計は、一般の全国応募の中から「砂暦、スナゴヨミ 」と名付けられ、1991年1月1日、108人の羊年生まれの老若男女の手によって回転され、仁摩元年の時が砂のように流れ始めたのである。高さ21mのピラミッド型の総ガラス張りの神秘的な建物「仁摩サンドミュージアム」の中で、時間の矢を21世紀に向け、静かに砂を流し続けている。

[仁摩町の人情と仁摩元年]

★空間と時間の移動★

 神奈川県伊勢原市は丹沢大山国定公園の南東に位置する。ここからのルートは、新幹線、飛行機、バス、車それに寝台列車といろいろ利用できる。ここから仁摩町へ行くには私は寝台特急夜行列車が好きである。
 新幹線で行くには、私の場合、鶴巻温泉駅から小田急線で小田原へ出る。ここ小田原は箱根の玄関口で、リュックを背負ったハイキング客でいつもにぎわっているところである。ここで新幹線に乗り換え、岡山で下車。ままかり弁当を買って特急やくも号に乗り込みむ。電車は伯備線に入り出発して20分もするとすぐにゆったりとした川の流れの高梁川に沿って走り始める。備前焼きを産するこの地は、黒瓦の農家の家と緑の山並みがよくマッチして落ち着いた美しい景色を見せている。伯備線は山間部を縫って走っているカーブの多いところである。そのために、列車はスピードを落とすことなく走れるL特急である。この電車は慣れないと気分を悪くする。この振り子電車は、名古屋から信州の塩尻へ向かう中央西線の列車に最初に採用された方式で、私はその電車をよく利用していたので、このやくも号の揺れは気にならず、曲がりの多い伯備線の旅でも問題ではなかった。3時間の景色を楽しみながら出雲の国に入ると簸川(ヒカワ) 平野(出雲平野)が斐伊川流域に広がる。斐伊川は八岐大蛇の伝説で有名である。車窓から斐伊川を見ながら鉄橋を渡り終わると、すぐに終点出雲市駅である。この川を渡ることが、仁摩にくるときのもう一つの楽しみとなった。水の美しさはもとより、水と共に川の流れ模様は素晴しい。車窓から飛び込んでくる砂の造形が、来るたび形を変えてくれている。一瞬と思えるほどの短い時間ではあるが、それを見るのが楽しみである。一度は降りて砂遊びをしたいものだと、そこを通るたびに思わずにはいられない風情のあるところである。そう思っていると実現するものである。その出雲市駅で快速に乗り換え仁万まで行く。
 飛行機は東京まで出て、浜松町からモノレールで羽田空港へ行き出雲空港へ、そこからバスでJR出雲市駅へ出る。急行に乗り換えて仁万まで行く。このコースは、都会での乗り換えや、人混みに酔い、私にとってはどうしても大変である。
 バスで行ったことはないが、帰りに一度利用したことがある。これは出雲市駅前から渋谷までの東急の高速バスである。バスと飛行機は時間と空間を有効に利用するには少々やりにくい。バスは、鉛筆を手にするようなことはできないし、本を読むにも周囲の人を気にしなければならない。本を読むにはすこし暗い。殆ど寝るしかなく自分の時間が利用できない。飛行機での機内はエンジンの音でうるさいく、狭苦しい空間である。これは忙しいビジネスマンが利用する物である。一時間ほどの飛行機であるが、ストレスを溜めてしまう時間と空間の乗り物でしかないようである。
 自動車も当然行けるが、慣れないと一人の運転では大変である。装置を運ぶ都合上、一度車で行ったが、深夜での運転はさすがに疲れた。二人交替の運転で東名高速から中国自動車道に入り、三次インターから国道375号線を大田市へ抜け、国道9号線を仁摩まで下った。夜中の三桁の国道は、山道がつづき、我々を誘導してくれるかのように、途中、何匹かの狸に出くわした。三次インターよりも、広島まで出た方が、はやく簡単であることを後で教えてもらった。 そのようないろいろなコースの中で、一番自由にゆっくりとした気持ちになることができ、いろいろと考え事をしながら行くことができる空間と時間を与えてくれるのは、わたしは寝台夜行列車であると思う。時間がゆっくりと流れ、自分の空間が移動して行くところが寝台車である。だから、仁摩町に行くときは殆ど寝台特急夜行列車である。利用するのは、いつもB寝台である。A寝台や個室寝台などとなれば、もっと素敵な空間と時間を満喫することができることであろう。会社ではB寝台までである。あまりこの時間を利用すると、明日の、いや今日の仕事に差し支えてくるが、つい、楽しさで時間を忘れてしまう。そこは読書、日記などに時間を費やし、有意義な移動空間であった。そのようなときほど、短い残り時間をぐっすりと寝込むことができた。それも終点であるという安心感もあったこともその理由の一つであったかもしれない。

★寝台列車の砂時計★

 寝台夜行列車にはベットの脇に小さな薄暗い手元電燈がある。その電燈は、白いカバーで覆われ閉されている。ところが電燈は薄汚くほこりで汚れている。そのほこりの侵入は、どのようにして発生したのか。寝台列車は、時間と空間の快適なものてあが、もう少し快適さが欲しいと思うところは、ベッド内が少し暗い。ワット数が少ないせいが暗さの第一の理由であるが、電燈の汚れは少々ひどいものである。私のいつもの癖が出てきた。早速、電燈の掃除である。脇についているボルトを外して中を見ると、綿ほこりに混じって、真っ黒い微塵の汚れで一杯である。殆どきっちりと密閉されているはずのカバーだがどうしてこのようなほこりが侵入するのか不思議である。このような好奇心や疑問がでるのも、寝台夜行列車の時間と空間のよさかもしれない。砂時計の内部の空気の膨張収縮と同じように、電燈を付けたり消したりする度にカバーの中の空気は膨張収縮を繰り返えす。完全に密閉されていないカバーの隙間からこの膨張収縮によって空気の流入流出が簡単に生じるために、流れに乗った微塵が侵入して沈着したというわけである、という結論に達した。砂時計の研究結果の産物である。仁摩に向かう特急寝台夜行列車のベットの少しは明るくなった空間で、読書を続けた。

★もう一つの自然★

 砂時計が動き出して2年目の1992年初秋に、念願の砂遊びができた。斐伊川の鉄橋から見た斐伊川の砂の芸術をまじかに味合うチャンスに巡り会えた。いつもお世話になっているコンパニオンの一人に上流からこの川に沿って案内してもらった。上流は、砂が急激になくなったが、美しい野の花を知ることができ、砂と違った自然にまた一つ近づくことができた。人目に知れることの少ない山間の清流の道筋に、赤紫の花をつけている草花が静かに揺れていた。花の好きな彼女は、これは「ツリフネソウだよ」と教えてくれた。なるほど名前の通り船の形をしている。植物辞典を開いてみると、和名では「釣船草」と書く。ツリフネソウは鳳仙花と同じ仲間で、ツリフネソウは野鳳仙花とも書くと出ていた。花びらはツマグレと言っていた花(鳳仙花のこと)に似ていると思った。ツマグレは夏の暑い日の庭先に咲き乱れていた。そしてその赤や白のツマグレの花びらを揉んで爪を染めて姉たちと一緒に遊んでいた子供のころのことを思い出した。花が終わって実がなり、それに触ると「パッ」弾けて飛び出す種。くるりと丸まる殻の変化がおもしろく一気に触って楽しんだものである。ツリフネソウの花びらは薄く鳳仙花のように優しかった。
ツリフネソウの花は、ゆらゆらと車の中で楽しそうに揺れていた。下流に近くなり美しい河原に車を止めた。靴を河原に脱ぎすててズボンを膝までまくって川に入った。川はその程度の深さであった。実際に触れた水は、車窓から見た水よりきれいであった。素足に伝わる砂の感触は、子供の頃、父とよく行った砂採りの時の川底の砂の感触を思い出させてくれた。懐古に浸った初秋の一時を過ごしならが、やさしい姿のツリフネソウと仁万へ急いだ。

★仁摩町にお邪魔する★

 砂の精製を終え、ガラス容器の洗浄方法や大きな空間に浮かぶ砂時計への砂投入方法の基礎的な研究結果を用意した我々は、仁摩への出発に先立ち、9月27日昼、三輪先生に挨拶をした。「ごくろうさん、気をつけてやってくれ」と、先生はすべてをわれわれにまかせられた口調で、安全と慰労の言葉をくださった。電話の向こうの先生の、緊張に加え穏やかな笑顔がその一言から浮かんできた。 王君と私が砂投入担当者として仁摩の町にお邪魔が始まったのは、稲刈りも終わった1990年の初秋の9月28日の寝台特急夜行列車、出雲1号を降りた朝からであった。石見の国、大田市駅で朝食をがとることにしたが、小さな駅であり、周りにはこれといって食堂らしいところはすぐには見当たらなかった。目に飛び込んだのは、駅前の古びた昔ながらの一軒の蕎麦屋であった。中華麺の好きな王君は日本蕎麦ではなくラーメンを注文した。
この店は石見の国にはもとより、出雲の国にも知れ渡った蕎麦屋として、有名な店であった。忙しい朝食を取って急行に乗り、仁摩町に入る。目に飛び込んでくるものは、九州の田舎の景色とさほど変わるところはないが、ただ海がすぐ間直に見えるところは大きく違っていた。何だか子供みたいに心が弾んだ。
 JR仁万駅に降りると(9時33分)、田舎特有の雰囲気がわたしの身体を刺激した。予約していた旅館は、捜すほどもなく、すぐに目に入ってきた。仁万駅前の古めかしい旅館は、大きなガラス入った木戸がひっそりと締まっていた。ガラガラとガラス戸を開けて中に入った。80歳位のおばあさんが出迎えてくれ、言葉での案内で二階に上がり、部屋に荷物を置いてお茶も飲まずに直ぐに役場に出かけた。

★急ピッチの建設★

 すでにわれわれの砂と砂投入のための七つ道具を乗せたトラックは、ミュージアム横の国道19号線のパーキングにエンジンを動かしたまま荷下ろしの順番を待っていた。ミュージアムでは、日本海テレビが取材する中、西ドイツからの大きなガラスが、ぬかるみの足場の悪いところで苦労しながら搬入されようとしているところであった。砂などのわれわれの搬入は午後になってしまった。
 ミュージアムの周囲の工事も急ピッチで行なわれており、あちこちが掘り返され、粘土質の足場の悪い状況である。街燈も無く懐中電灯を持ってなくては歩けない程である。このような状況の中、遂に犠牲者が
でた。コンパニオンが帰宅中に穴に落ちたのである。真っ暗闇、急に次のステップが無く、アッという間もなく落ち込んだという。やっとはい上がったら、また次の穴に落ち込んでしまったという。笑い話し程度で終わった出来ごとであった。夕方のテレビでは、ガラス搬入の様子が報道され、町全体が砂時計ムードになった。

★集団出勤と集団登校★

 我々が仕事で旅館を出るのは、小学生が登校する8時頃で、いつも同じ所で同じ小学生達と出合った。我々は多い時で11人程、狭い道路を長靴スタイルで砂博物館に出かけていた。昔ながらの古びた自転車屋さんの70才位のおじいさんは、薄暗い電灯の下で、もうストーブで暖をとりながら、店の中からわれわれにいつも大きな声で挨拶をしてくださった。一日の励みになったものである。われわれの作業服と長靴スタイルは、小学生にとっては異様な光景に見えたかもしれない。雨でなくても、三角のピラミッドの建物に近づけない程の足場の悪い状況にあったので仕事にはいつも長靴である。われわれも小学生の集団登校と同じように、つるつる頭にタオル鉢巻をした湯島天陣の組頭関さんを先頭にして、9人の集団出勤である。その二つのグループが出会うと、子供たちの方から「おはようございます」と大きな声で挨拶してきたのである。「都会では絶対に考えられない光景だな。都会ではそなことをしたら逆に先生や親から怒られるわ。知らないおじさんには声を掛けたりしてはいけない。変な人がいたら連絡しなさいというくらいだよね」としゃべりなら仕事場に出掛けた。正直いって驚きであると同時に仁摩の人柄のいいところだなと感じ、そう思ったことに対して自分が恥ずかしくなった。それは朝だけではなく帰りの時間でも、子供たちは、知らない我々に対して「かえりました」と挨拶をしてくる。子供たちに負けない声で挨拶するようにした。疲れのとれる一瞬である。

★気分転換★

 砂時計のセットから砂の投入まで、緊張の続く毎日であった。後半は、気分転換の為、温泉の宿に変わった。そこは、天然の温泉が涌きでている。のんびりと出来るいままでとはまた違った雰囲気があり、疲れを癒すには良い宿である。温泉場は、増改築のため母屋を一度外へ出てから別の入口から入らねばならなかった。浴衣だけでは少々肌寒い季節であったが、目の前に迫る山合の里にカタコトと下駄の音を響かせながら温泉に向かう。ところが入口がわからず、しばらく探し廻る。正式な入口は無く、なんと大きな窓をあけて敷居を跨ぎ、先客が背を流している横を浴衣を腰までまくしあげて更衣室へ抜けて行く。そしてまたその湯場にもどる。風情があっていいではないか。湯は少々ぬるいが、温泉の香りとぬるぬるしたお湯で、長い間湯船に浸かっていると身体の芯まで暖ったまった。仁摩町誌によると、この湯の特性は、温度30℃、pH=7.6、蒸発残留物1.404mg/l、放射能成分0.4mg/l、Na+461.8mg/l、Ca++77.57mg/l、Cl- 458.4mg/l、SO4-- 235.5mg/lと出ていた。風呂場への大きな臨時の入口をいっぱいに開放すると、窓から顔を大きく外へ出さないと空が見えない程に急な岩斜面が迫っていた。この斜面は、手入れが行き届いており、きっと建物が完成したら透明のガラスになり湯船につかりながらゆったりとした心地で、四季の移り変わりが楽しめるようになるのであろう。
 夕食まで間があり、暖ったまった身体で散歩をした。リンリンと流れる細流の音を感じなながらの散歩は、夕闇せまる山間の小さな温泉の緑に、そして高い初秋の空に疲れが吸い込まれていくのを感じさせてくれた。生きているという存在観が、自然の中に溶け込みながら感じ取れた。この時空は都会のホテルのクーラーでは得られないものである。都会の出張では狭く囲まれた白い部屋で明日の準備の計画表を開くことくらいで、きっと疲れが残るあろう。

★溢れでる電気★

 まだ明るい夕方の湯迫の里をゆっくりと満喫しながら、さらに奥へと行ってみた。小さな川にはここでとれたと思われる沢蟹が駕籠にいれてあった。紐を引っ張ってみるとがさごそと沢山の蟹が入っていた。小岩がごつごつ出ている細い小道を、十数年ぶりに下駄で歩いた感触は、下駄で通学していた中学生のころや大学時代田舎の下宿の野道を下駄で散歩していたころの生活を想い起こさせた。過ぎ去ったむかしを想いながら湯迫の山合いを歩いた。しばらくすると一軒の家が見えてきた。この先にはもう家がなく最後の一軒の民家があるだけのようであった。それから先は、もう山奥といった様子である。電柱もここで終わっているようであった。というより電灯線が切れているといった雰囲気である。正に切れているといった表現が適切である。なぜなら、電線は、今まで、何処までも続いているいるものだと思っていたから、この民家の電柱の先に電線がないのがわたしには異様に映った。電線の先がその家に引き込まれているならば、おかしくはないのだが、その家への引き込み線もよく判らない。中学の理科では、電気は水の流れの例えで教えてもらう。ふとそのことを思い出し、ここでは電線が切れているわけであるから、先端で電気というものが水のように流れこぼれているのではないかと考えたそのおかしな考えに苦笑した。静かな湯迫の旅館である。
 仕事の帰りに、今も決まってこの湯迫のお湯を利用する人がいた。我々も何度か一緒の湯船になり、苦しかった生活のために百年ほど前にも百姓一揆があったことなど仁摩の昔しの様子を聞かせてもらったりした。この温泉も砂時計ができることによりお客が増えることを願って、部屋の増築がされていた。湯迫温泉は明治、大正と石見銀山の積み出し口の温泉で栄えたという。石見銀山の資料には、次のように記されている。「石見銀山の始まりは、壮大なロマンに満ちたドラマで幕が開きます。推古天皇28年(620)のことです。仙の山(537メートル)の頂上が突然光り輝き、霊妙仏が中天に姿を現わし、ふもとの人々は、霊光に満たされた山頂の池を、朝日ケ池、夕日ケ池と呼んだと伝えています。延慶2年(1309)には周坊の大内広幸が、銀山を発見したといいます。室町時代は戦乱の時代、巨大な夢をはらんだ石見銀山は、中国路の武将たちの標的となり、激しい戦いが続くことになる。豊臣秀吉の進出で安定した管理が行なわれるようになる。江戸時代、明治時代そして大正時代まで続き、大正12年(1923)に閉山した。
再開発の目処は昭和18年の大水害で完全にその夢が消えたのである。」その頃から仕事の帰りに疲れを癒したのであろうか。
 われわれの昼食は、19号沿線にある博物館のすぐ前の昔ながらの小さな食堂梅の屋をよく利用したが、その食堂の鴨居には、大正のころの銀山鉱跡の古びた写真が手入れのされることなく掛けてあり、そのころの面影を偲ぶことができる。写真の片隅に”永久鉱山“と墨で書き記してあった。ここのご主人は、日本各地のこのような鉱山の写真や資料を集めるのが趣味ということで、勉強会を作って鉱山のことを勉強なさっているということを、この食堂の奥さんから話しを聞かせてもらった。

★食卓の柿★

 時節柄、泊り客は我々だけであり、たわわに実った柿が、庭先の仮りの料理小屋の軒先まで垂れ下がっていた。宿のお手伝いのおばさんにお願いして、夕食の膳に添えて頂き、採りたての秋柿を味あわせてもらった。四つ割りにした皮を剥いた柿肌は黒ずんだ茶色しており、口にすると、固い歯応えと共に、あの柿の甘味が口いっぱいに広がって来た。料理には、せせらぎの流れに投げ込まれた篭に入れてあった沢蟹が加わって膳を賑やかにしてくれた。
 仕事を終えて宿で迎えてくれたのは、駅前の旅館のときの小学生の挨拶と違って、旅館のおかみさんの心からの笑顔と疲れのとれる温泉であった。5日程の短い宿泊であったが、宿を後にする時は奥さんが道路端まで出て、いつまでも笑み満々で見送って下さった。話は前後するが、仁摩に来て20日程経ってこの湯迫にお邪魔したが、気がつくと仁万では若い女性にはお目にかかったことがなかった。勿論、コンパニオン達には時々会ってはいたが、そのかには、仕事の時間帯もあろうが、まず会った覚えはなかった。そのように感じたのは、仕事を終え薄暗くなった湯迫の宿で、先の仮の薄暗いような料理部屋には料理人と他に若い女性が目に飛び込んで来たときである。王君、寺地君と三人ともそれを感じ取っていた。「え、偉い若い美しい女(ひと)だな!」と食事の話題にのぼった。その人がここの奥さんということは、お手伝いにきているおばさんから、料理を運んでくれたときに知った。おばさんは湯迫温泉の玄関口ともいうべきところに家を構えている。忙しくなるとやってくるということである。そのおばさんから、奥さんには子供が3人いると聞いてびっくりしてしまった。だって、料理部屋の傍を通りながら見たときは、25、6の女性に見えたのは私だけではなかったからである。しかし、笑顔はやはり美しい、忘れえないものである。

★あたらしい人情にであう★

 次に来たときの宿は、今度は隣町の民宿にお邪魔することにした。馬路町は砂博物館から少し離れているために毎日の通いが気になっていたが、それも民宿の方が気を使って下さり、我々はそれに甘えさせてもらった。毎日、博物館の前まで送り迎へしてくださったのである。帰りは遅くなることが多かったが、電話で連絡させてもらい、わざわざ博物館したの19号線の脇道まで迎へに来てもらってしまった。
 ここでは、また別の民宿のよさが、われわれの仕事のやりがいと疲れを吹き飛ばしてくれた。食事の時は、おばあさんが膳について御飯をよそって下さり、町の砂時計に賭けている意気込みなどを聞かせてもらったりした。食膳は、他の宿に劣らず毎日御馳走で、疲れ切った身体に全ての栄養が吸収されていくような気持ちで食が進んだ。その料理には、一皿一皿にわれわれに対する励みと砂時計の成功を祈願する気持ちのような温か身が感じ取られて、なおさら美味しさを増してくれた。宿の若主人の猟友会で狩ってこられた、猪のすき焼きの膳は、最高のもてなしであった。わたしは生まれて初めて猪の料理を頂いたが、牛肉と違って油っ濃さが無く、全く臭みというものはない。さっぱりとした料理であった。そのような夕食が効き、朝の目覚めはいつも気持ちよく迎へられた。

★朝方のビールで乾杯★

 仁万でのクリスマスから大晦日までは、徹夜の連続であった。夕食をすましてから、また出かけ、帰りは朝方の2時、3時、時には5時という日もあった。そのような時、冷えたビールがお手製のおつまみを添えて、二階の階段の上がり切った角に置いてあったりもした。目が半分潰れそうな、すっかり疲れ切った身体もビールの美味しさで覚め、今日の成果を語り明日のことを語りながら、心温まる御もてなしを頂戴した。さすがに疲れも溜り、おばあさんから声をかけられて、その日は10時近くに皆が起きたほどであった。暮れも押し迫った30日である。朝食ともつかない遅い食事をして、ひる近くに博物館にでると、すでに館内は、それぞれの準備、見知らぬ人達でごった返していた。コンピュータを見てもらっている田中軽電工業の田中さんは、最後の調整のためにステージに上がりコンピュータに付きっきりで、最後の最後まで頑張って下さった。田中さんは、チェックを終え大晦日の昼、博物館を後に、車で一人で帰られた。こちらに来る時は三人で車で飛んできたが、帰りは田中さん一人の運転で申し訳ない気持ちであった。

★基礎研究の報告会★

 大晦日の砂博物館の周囲には夜店が並び、館内も報道陣、イベント係、町の関係者が右往左往し始めた。われわれは、万全の準備を終え一度、雨の中民宿の娘さんの迎えの車で宿に戻り、お寿司の夕食をいただいた。私は、ゆっくりとお風呂に入った。今までの疲れが身体の全身から抜けていくのを感じ、またこの仕事の区切りのような感覚を覚えた。ここまでの粉体工学と化学工学の領域での基礎研究をすべて終えて、その結集があと数時間の後に花咲こうとしている。失敗したらどうしようというきもちは起こってこなかった。考えられることは、与えられた時間内ですべてやってきた。考えられる要因の実験をやってきた。化学工学的なスケールアップの検討もやった。いろんな種類の失敗も数多くやった。頭の中での実験も何度も失敗した。研究での失敗はいやというほどやってきたので、この段階では何も心配することはないのである。いや、心配する種がなかったというのが本当かもしれない。ひょっとしたら”知らぬが仏“とでもいうことかも知れない。これからがまた 実験だという気持ちであったので、この時点ではすべてが満足であった。
 よくぞここまできたものだと、幼少のころや中学、高校それに大学時代のことが廻ってきた。昭和電工の粉屋としての基礎研究の成果が今回の砂時計の研究に大きく貢献したことなどが、瞬時のうちに頭の中を通り過ぎた。そのようなことを湯船に浸かって静かにふけっていると、亡き父と兄のことが想い出された。汗と一緒に頬を伝った泪は、湯船のお湯に溶け込んでいった。長いお風呂でぐったりした身体に、いつものように身体に冷水で刺激を与え体を引き締めた。風呂から上がって冷水に刺激された身体は、今度は、内部から熱を発散し始めてきた。皆と団欒していると、疲れた身体には睡魔が襲ってきた。それは皆も同じであった。それぞれの床でしばらくの時間横になった。・・・・。どれだけの時間が過ぎたのだろうか、忙しく動き回る物音で目が覚めた。気持ちの準備をし、町が用意してくれた車で、三輪先生達と2キロほど離れた博物館に出かけた。いよいよ回転の時間が近まり、それぞれの担当位置に着く。
 三輪先生は、回転の綱を引く人混みの角で、くる日がきたといった心境で小生らのいる11m上の砂時計を見上げておられた。5分前から「よいしょ、よいしょ」の掛声で、砂時計はゆっくりと回転し始める。基礎実験の結果の発表のクライマックスである。零時の時報が鳴るとほとんど同時に、砂は流れ始めた。松明の明かりで浮かび上がったサンドミュージアムの外では、花火とレーザー光線で最高に盛り上がり、みなの拍手と万歳の摩元年がスタートした。館内では、報道陣のカメラが一斉にフラッシュを焚き、三輪先生と泉道夫町長を囲みインタビューが始まった。わたしは11メートルの高所の離れた所から、先生達の感激を有り有りと感じ取ることができた。この瞬間を見たときが、小生が最高にホットしたときであった。下におりていき、このためにやって来てくれた大学時代の二人の友人や小生より長い砂時計の研究をされた生活文化研究所の井上良子さん、砂時計の搬入からいろいろと共に仕事をしてくれたコンパニオン嬢達、町の関係者と成功を祝い、感激に浸った。印象的だったのは、コンパニオンの目から流れ出ている美しい感涙であった。みんなの祝う中で先生ともに頂いた花束は、私にとって最高のプレゼントとなった。
 一人で帰えられた田中さんに成功の連絡をした。23時近くに着いたそうである。回転の成功を電話口の田中さんと再度喜びあった。

★仁万のお正月★

 仁摩元年の祝賀がまだ覚めやらぬ中、新年の午前2時を過ぎたころ町の準備した車で馬路の民宿に戻ると、すでにテーブル一杯に料理が並んでいた。ビール、酒、ウイスキーと数々の盛沢山の正月料理のおもてなしを受けた。新年の祝いと仁摩元年の祝いのこれ程のおめでたい祝いは二度とないことであろう。しばらくしてこの砂時計に多大の力となられた松浦助役が、祝いにおいでになり、盛大なお祝いが、午前4時近くまで続いた。中国からの王君も慣れぬ日本の正月と連日の徹夜で相当に疲れている様子で食があまり進まないようであったが、日本での始めての大きな仕事に感激していた。われわれの仕事の進行には、仁摩の方々、特に小鐵屋、湯迫、いいのやの宿の方には、目に見えない砂時計への参加が、本当に大きい力になった。
 母には、正月にテレビで見てもらえることを楽しみにしていたが、湾岸戦争で1月10日の放映は延期になり、結局番組編成の都合で九州地方も見れなくなったことは残念でしかたなかった。仙台の80日計をつくった仙台、妻の実家の山梨も中止になってしまった。

〔砂時計が終わって得られたもの〕


★母の見送り★


  仁摩一年計が始動し始めた。ここで得られたものはなにか。技術的なことは別として、大切な自然の中の人間として,いや、人として得られたものは、仁摩町の人柄のよさであった。町長を始め、丸山氏、コンパニオン達とそのグループの方々、町の方々には、お世話になりっぱなしであった。みなさんの純粋な心がわたしにはよく見えた。素朴さがいろいろな行動、態度に滲み出ている。ミーちゃん、チーちゃん、ナオちゃん、メグさんのコンパニオン達は、澄み切ったこころ優しいとろがありありと出ていて、接していてもこちらの気持ちがすっきり洗われてくる。
ミュージアムを出ると、ミュージアムからは、わたし達が帰る後ろ姿が3回見え隠れする。一回目は玄関先、2回目はミュージアムを降りた階段下、そして3回目はよく注意しないと、わたしのほうからは彼女たちを確認しにくい。ガソリンスタンドのところで9号線を横切り、スナック「摩摩」の角、そこが3回目である。ここに来たとき、何かの力がわたしを振り返えさせた。すると、まだ彼女たちの白い手袋とハンカチがミュージアムのガラスの奥から揺れていた。こちらからも、手を振って合図して最後の別れをした。彼女たちの笑顔はこの距離では当然見えないが、それを思い浮かべながら仁万駅へ向かった。仁万駅のホームでも見えるが、もうミュージアムのガラス張りの中の人影を確認するような距離ではない。向こうからは小さく人影として見えるかもしれない。ホームにいるのは我々王君と二人であるから・・・・。
 彼女達の最後の最後までの見送りには胸が締め付けられた。わたしの帰省(福岡県大牟田市三池新町)には、必ず父や兄が駅の改札口で笑顔で迎えてくれたし、郷里を離れる時には、ホームまで入って見送ってくれた。学生時代の帰省からそして結婚してからまた子供たちが出来てからもこのことは一度も欠かされたことはなかった。父はわたしが帰省することを一番の楽しみにしていたことがよくわかった。勤めの時間をもらってでも仕事着姿で迎いにきてくれていたし見送ってくれた。兄も駅の近くで仕事をしていたので、迎えに来てくれていたし、時間を見ながら食事を取ったりして出発の時間を過ごしたこともあった。父と兄が亡くなった後の今では、姉が迎えに出てくれている。そして私がふるさとを離れる時は、年老いた母が姉と一緒に、毎回、駅のホームまで来て見送ってくれた。しかしいまはもう母もいない。しかし、わたしの心のなかにはそして脳裏にははっきりとそれらの光景が焼きついている。コンパニオン達の見送りは汽車の窓に手を摺るようにして見送ってくれた姿の母を思い出させるものであった。
 きちっとした仁万駅前の小鐵屋旅館を朝出る時に逢う小学生達の元気な挨拶、店の中から声を掛けて下さった自転車屋のおじいさん、湯迫の温泉気分やその自然に育った蟹料理、秋の味覚を味あわせてもらったお手伝いのおばさんと、仁摩の皆さんから人情深い心を与えてもらった。また民宿のおばさん、娘さん− 子供が自然に接することを大切にされている明るい保母さん− 達には、大変にお世話になってしまった。仕事の度に車で送り迎えをしてもらった。料理もきっと特別にしていただいたことであろう、普通では到底できないような豪華なものばかりであった。夜、遅い時の、階段に用意してあったビール・・・・。自分達のことのように思ってやって下さっていることがよく伝わってきた。仁摩の方の自然にでてくる美しい人情をもらったことは、わたしにとってなによりのプレゼントであった。それにもまして、わたしをここまで育ててくれた両親の何気ないホームでの見送りが、どれだけ暖かいものであっのかを教えてくれたコンパニオンの見送りは、一生忘れられないものである。自分を飾らず、やっている行動は次の見返りになるのだという思いでやらないことが大切であることを教えてもらった。これはおれがやったのだと高ぶらないこと。欲でやらないことが美しい人である。
そういうことが見え教えられたもう一つの砂時計の研究成果であった。
・・・・砂時計の本-01//

〔高所砂投入〕


★異物混入、再度砂を抜く


 1990年10月8日(月)から始まった高所での砂投入作業にはなかなか慣れず、考えるとは安全と砂投入が無事終了することだけであった。9月28日から10月18日まで続いた作業は単なる作業者といったところである。投入が終わっての回転実験はロープの安全点検の都合で予定の10月20日には行なわれず、11月に入って仁摩町が行なった。流の実験が出来なかったのは残念であった。
 神の知らせが飛び込んで来た。11月13日に仁摩町から「砂時計が止まっています」という連絡が入った。電話で状況を詳しく聞いてみると、砂時計のガラス容器を下から見た砂の堆積状況は、底に円錐状にに堆積している砂の直径は20cm程度という。これでは流れた砂の量は数キログラムと推定される。どうも数時間しか流れていないことになる。
 スタートは11月6日である。そして11月7日と8日は流れて溜っていたという。三輪先生に連絡して、至急仁摩に出掛けることにした。
 早速、仁摩に出張した。ノズルの部分に異物がひっ掛かっており、万事急須である。その部分を外から叩いても全く流れないほどの大きな異物である。このような異物が一つあるとなると、他にも異物がある可能性があることは予想される。それなら全部の砂を検査しなければならない。詰まっている状況を写真に収め、それからノズルを外す準備にかかった。11mの高さの位置まで機材をロープで引上げノズルを外すための特殊なセットをして慎重に異物を取り出した。町長室にある顕微鏡で観察し写真をとってカプセルに入れた。ミュージアムで王君と4、5の案を議論し、それをもってその足で飛行機で大阪に飛び同志社大学へ駆け込んだ。入った原因は、ガラス破損の保護に用いた毛布に着いていたものが、ガラス容器を組み立てるときに飛び込んだものであると思われた。コンクリートのかけらのようなものであった。
 三輪先生と協議の結果、
 『砂を全部だし、再ふるい分けを行なう』
という結論になった。一瞬驚いた。大掛かりな作業であるが、これがやはり一番安心で確実な方法であることは間違いがなかった。われわれの対策案の最後のものであったが、技術的には納得の行くものであり、ここではすぐにわたしも賛同した。勿論、床から足場を組んでのやり直しである。
 いろいろと準備をしてこの作業が、12月4日から砂の再ふるい分け作業が始まった。スタートの時間も迫りしかもまだコンピュータ制御の実験もできていなく、今回の砂投入はわたしと同志社大学の寺地君の22人となった。王君は会社でコンピュータ制御のための流出実験を田中計電の田中さんと担当した。
 最初の砂投入作業でも彼が来てくれたが、そのときは砂時計への階段を登るにも四つんばいとなる恰好であたが、今回の投入では慣れたもので、うっかり安全ベルトを忘れ注意される程であった。


★二度とないであろう14mの展望で思うこと★

 冬らしい晴天の綿を散りばめたような雲の合間から美しく澄みきった青空が顔を覗かせ、朝日はピラミッドの中に眩しく差し込んでいる。高所での作業が楽しくなりだし、わたしも二度とないであろう14メートルの高所でもゆったりとした気持ちになる余裕が出て来た。砂の投入作業も順調で、安定してきたのも手伝って、冬が近まった仁万の町を高いステージの上から眺めながら考え事ができた。砂投入をしている下では四人のコンパニオン達が三輪先生の指導でテープ年表の作成を準備している。暇があるのか、コンピュータゲームではしゃいでいるコンパニオン達の声がピラミッドのホールに響き渡っている。明るい四人組である。
 砂を用いた展示物の作品をセットしている二人の芸術家も最後の追い込みに入り忙しく動き回っていた。渡辺氏は「わたしの作品にの中に「時間」というものを基礎においている。静止していることも時間かも知れないが、それはここでは別として、わたしは砂が動いていることを主眼にしているから、やはりそこには「時間」ということを考えなければならない。砂時計を機にして、皆が時間というものを考えることが大切ではないだろうか。人の動きや行動というものは、砂時計的であると思う。砂時計のように時間のバラツキがあることが、個性というものだと、わたしは思う。砂時計のような生き方をしたいですね。砂時計を精確にしようとすること事態が不自然なことであり、砂時計が、志波さんには申し訳ないが、極端にいって止まっても、やはりそれが自然なことではないでしょうか」と、砂時計の考え方を芸術家的に聞かせてく
れた。
 14メートルの高所での砂投入の場処は全体が日だまりになっている。仁万の町は、北の方が僅かに町並みが開けており、ここからは山の間から仁摩の漁港を少しだけ見ることができる。小さな漁村である。西の方に目をやると、山の中復に、目の高さと同じレベルに、落ち着いたお寺が村落の安泰を見守っている。西本願寺派浄土真宗満行寺という。ここには琴が浜の琴姫伝説の琴姫の霊が安置されていると聞いている。
このようにほっとした気持ちは、中学生以来やったことのない私にスケッチを始めさせた。ここは、仁万の風景をスケッチするようなゆとりと芸術のこころにさせてくれた。時々、砂の流れを監視し、また鉛筆を手にしスケッチを続ける。西の景色を眺め足をぶらぶらさせながら仮の足場に腰を下ろし...、全くの余裕をもって。スタートまでは1ケ月もないのであるが、焦ってもどうしようもないという諦めの気持ちにもなっているのも事実である。会社では、王君と田中軽電工業の田中さんの二人がコンピューターの最後の追い込みの実験をしている。
 間に合うだろうか。だけど、今やっているこの砂再ふるい分け作業がよくぞ砂時計のスタート前にできたのも考えてみれば本当に幸運である。まだ出雲の神様にお参りをしてはいないが、神の助け、とはこのことだ
と思わずにはいられなかった。


  砂暦の完成までの記録

 仁摩町の砂時計は、同志社大学の三輪茂雄教授の監修のもとで遂行されたいわゆる産官学の共同研究である。砂時計の計画に乗るかの判断を受けたのは、一年計砂時計がスタートする予定の3年半前の1987年7月であった。4月27日に信じられないような話を三輪教授から直接電話で伺ってはいた。十数トンの砂を一年間流し続ける方法を考えよというわけである。学生時代にもどったような研究の話であり、わたしはわくわくした。これが一年計の砂時計に発展する話になるとは夢でも思っていなかった。
 砂時計の基本的な研究は、すでに10年も前から大学で行なわれていた。しかし、その研究は、砂時計という形ではなく、容器に入れた粉体が孔から流れでる場合の数々の研究であった。密閉された本来の砂時計としての研究が大学で本格的になされたのは、さほどの時間は経過していなかった。小さな数分計がなんとか通過する程度で、砂時計に使う砂はどのような砂を使うか、砂の粒度と砂時計の孔の関係はどれくらいか、といった砂時計としての基礎研究はまだ出始めの状況であった。そのような状況下で企業としての研究は何をやればいいのか。わたしも学校を卒業して研究畑ばかりを歩いてきたので、基礎研究することは簡単に受け入れられる自身はあった。しかし、「一年計砂時計」。誰もこれまで思いもよらなかったもの。この話が教授から研究の依頼がきたときは、心の中では小生は間断無く受け入れていた。数日後研究をやることが決定した。研究者として、未知のものをやるほどやりがいのあるものはない。勿論、失敗は覚悟である。失敗の無い研究は、研究費の無駄使いである。失敗しないなら最初から研究をする必要は無く、初から目的のものを作るべきである。では、研究なしでどのようなものを作るのかといわれると、わたしにはわからない。失敗する研究はしなくてもいいという人に、失敗してはいけない研究の方法を聞いてみたい、教えてもらいたい。わたしは何が起こるから判らない、だから研究しなけばならない。失敗するかもしれない。いや研究中は失敗ばかりである。それはやはり喜ばしいことである。なぜなら、研究段階での失敗は、発注者に何もご迷惑を掛けないのである。そして損害を小さくしてくれるのが研究段階なのである。そういう意味で、基礎研究は失敗してもいいとうことであり、基礎研究は重要である。
 我々の研究は、まず三輪教授から、小さな砂時計を数個お借りして、早速1987年の8月から始まった。砂を入れては流し、孔から流れ出る砂を眺めながら、完全に流れつきるか、止まるか、詰まるか。詰まったといえば、砂の精製を繰り返したり、砂の種類を変えたりの毎日で失敗の連続であった。開発から、一年計の砂時計の設置、スタートまでの概要はつぎの様に続く。

1987年8月

 砂を作る工程の研究が始まる。砂の中に異物や大きな粒子、ほこりが入らないようにするには、篩分けから砂の水洗い、乾燥設備などの検討をはじめた。ここですぐに、昔の研磨微粉の研究が思い出され、その工程に沿った砂つくりのプロセスを検討した。わたしが研究した研磨微粉というのは、いま花形の産業であるコンピューター部品のIC回路に使われるシリコンウエハーを研磨するときに使う研磨材のことである。この研磨材の中には一粒でも大きな粒子が入っているとウエハーの表面に傷を付けるから、絶対に入っていてはいけない厳しい品質を要求されるものである。砂時計もまったく同じである。ここで大きく違うのは、われわれには粉を扱う会社でないことであり、それらの工程をいかにして組み上げるかということは大変なことである。昔の研磨微粉の友人の忠告がひとつひとつ思い出され、できることは実行した。机や装置は、毎朝拭掃除をする、顕微鏡を覗くと粉全体の様子から分布は予測でき、大きい粒子が入っているかどうか大体わかる、そのようなことを徹底的に実行した。
 取りあえず、数キロの砂をブロック的な工程で作ってみた。この砂の性質を、小さな砂時計で検討。うまくいかない。一時間計も検討するが勿論、だめ!
 孔の大きさと砂の大きさの関係を研究するために、ガラスビーズをふるい分けそれで砂時計をつくった。さらさらしたガラスビーズでさえも流れず、途中で完全に止まってしまう。止まった砂時計をルーペでよく見ると、糸くずであったり、黒い異物であったりで、目的とした研究ができない。ガラスビーズだけではなく、いろんな産地の砂を三輪教授から頂いて、ふるい分けたり、水洗いしたりして研究したが、流れは数分で止まってしまった。それが幾度も続いた。綺麗な砂つくりとは何んなのであろうか、どうすればいいのか頭を痛める。

1987年9月

・砂時計の砂製造工程を化学工学的に検討する。
・3ヶ月が過ぎても、完全に貫通する砂時計は1分計でさえも一個もできない。
・三輪教授、1ヶ月計の設計図ができる。200g/h、 3.7メートル。この分なら一年計は8メートルである。

1987年12月2日

 朝日新聞の今日の問題の欄に「日本一運動」という項に、『うぐいす張りのように踏むと音を出す「鳴き砂」で知られる島根県仁摩町で、世界一の砂時計をつくる計画が進んでいる。全長7メートルの円筒状の器に、1.7トンの「鳴き砂」を入れる。ちょうど一年で砂が落ちてしまう仕掛けにし、年が改まると器を逆さまにする。砂時計に合わせ、世界各地の砂などを集め、砂の博物館も建てる。云々。』と発表され、町全体が本格的にスタートを始める。

1988年1月

 どうにか流れるようになった少し大きい孔の砂時計を用いて、砂時計の置かれる環境の影響を検討する。山陰地方の島根は、冬は寒く一年の気温の変動が大きいことを考慮して、冬の真夜中でのベランダでの実験や、家での冷蔵庫などでの実験で妻の料理場を一部占領する。さらに、風呂の湯船での実験、小学3年の息子も風呂の中で汗だくの実験助手である。60℃までの恒温槽内での実験などを繰り返す。家族の協力も仰ぎながら、砂時計の流れ方についての温度依存性に、興味ある現象を発見する。

1988年3月

 一年計向けてのスケールアップを検討するために、さらに大きな砂時計を三輪教授から借用する。容器の一つの大きさが3リットルという大きさ。目を見張るものを感じる。この大きさでは、1、2日程度である。
実験の結果がでるのが、一日、二日と間隔が長くなり、詰まってしまえば、また一、二日が伸びる。実験のスピードの遅さに苛立つ日が多くなる。
 実験の場が、家庭にも入っていく。詰まった砂時計は、会社に持ち帰り、再度砂の精製を行なう。会社に持ち帰るとはおかしいものであるが、実験の場所は、家と会社を混同しているのである。背丈60cmの大きな砂時計は、通勤カバンには入らないので、丁寧にクッションを巻いて保護し、登山用のリュックを背負っての自転車通勤が始まる。
 8インチの手篩で、自宅でも砂の調整をし、砂時計の砂を交換した。お陰で部屋は砂だらけになった。これでは勿論成功しない。部屋の中は、糸くずで汚染されていることが後になって判った。
・長期流れつづける砂時計の特許が三輪教授の発明で、三輪教授、仁摩町から出願される。長い時間になると大きくなった容器の空気の膨張収縮が問題になってくるが、この対策として空気のバイパスを設けた砂時計である。

1988年4月

 孔の形、材質の検討を行なう。網のように正方形の孔、薄いセラミックスや静電気を逃がすためと黄銅製の孔、パイレックスガラスなどいろいろと作って次々と実験をする。孔を開ける方法による影響の検討をする。開け方により、バリがでたり、裏からと表からの孔の大きさが違い、円錐台のような形になったりした。超音波やレーザー加工などもうまくいかなかい。ガラス職人による手作りで何本もつくり、流出テストを続ける。ガラスの滑らかな表面が効果的であることがわかってくる。

1988年5月

 5月の連休は妻の実家である甲府へ里帰した。勿論一日計の砂時計も同行である。丁寧に毛布で包み車のトランクに入れて持っていった。流れチェックのメモ用紙、電気スタンド、目覚し時計とストッウオッチを枕元に置いてデーターをとる。夜中に目覚まし時計より先に目覚めることが何度あったり、どうしても止まる回数が多い。熟睡できない。

1988年6月


 砂の中に糸屑の存在していることがつまりの第一の原因であることが確実になり始める。砂時計の止まる理由の90%以上は、砂の中なの糸くずであるということが、だんだん判ってきた。砂作りのためのクリーンルームの検討を始めた。あまりにも高い見積り額に関係者一同頭を抱える。
 砂の中から埃をとる方法を検討することにした。手作りで流動層式の装置をつくり、一時間計、一日計にその砂を入れて実験をする。目立った効果が出ない。まだ、糸屑による閉塞であろうと思われる失敗がつづく。3リットル、5リットルの丸底フラスコを用いたお手製の砂時計を並べ、一日、二日の長い時間の砂のチェックの実験を繰り返し続ける。しかし、失敗ばかりである。原因が、本当に糸くずなのか、粒子と孔の大きさの関係が間違えているのだろうか、それとも砂の特性によるものだろうかと、交絡した要因がまだ頭の中をふらふら行きかう。

1988年10月28日

 1年計の基本形状が三輪教授から送ってくる。120g/hを想定した大きさになる。1年計は1.063 トンとなる。スタートは、1990年12月31日大晦日とする。

1988年11月

 基本形状の砂時計の容積の数学的計算の検討を行なう。三角関数と積分の問題である。久しぶりに高校の積分を行なう。全部の解答をだすには、高校生では少々難しいが、考え方は高校生の数学の知識で充分である。

1989年1月

 静電気の研究が生活文化研究所で行なわれる。データーのばらつきが大きく、アース、部屋の湿度コントロールなどの対策をするも、期待した成果がでない。やはり糸屑に邪魔されているのだろうか。静電気
の研究の前に糸屑を絶対にとらなければいけない、という結論になり、装置の再検討を始める。われわれも15mほどもある空間の高所での砂の投入現場での状況を考慮し、砂作り全体を考慮した装置ということを重視して、糸くずをとる方法の研究・開発を生活文化研究所と平衡して枕元に置いてデーターをとる。夜中に目覚まし時計より先に目覚めることが何度あったり、どうしても止まる回数が多い。熟睡できない。

1988年6月
 砂の中に糸屑の存在していることがつまりの第一の原因であることが確実になり始める。砂時計の止まる理由の90%以上は、砂の中なの糸くずであるということが、だんだん判ってきた。砂作りのためのクリーンルームの検討を始めた。あまりにも高い見積り額に関係者一同頭を抱える。
 砂の中から埃をとる方法を検討することにした。手作りで流動層式の装置をつくり、一時間計、一日計にその砂を入れて実験をする。目立った効果が出ない。まだ、糸屑による閉塞であろうと思われる失敗がつづく。3リットル、5リットルの丸底フラスコを用いたお手製の砂時計を並べ、一日、二日の長い時間の砂のチェックの実験を繰り返し続ける。しかし、失敗ばかりである。原因が、本当に糸くずなのか、粒子と孔の大きさの関係が間違えているのだろうか、それとも砂の特性によるものだろうかと、交絡した要因がまだ頭の中をふらふら行きかう。

1988年10月28日

 1年計の基本形状が三輪教授から送ってくる。120g/hを想定した大きさになる。1年計は1.063 トンとなる。
スタートは、1990年12月31日大晦日とする。

1988年11月

 基本形状の砂時計の容積の数学的計算の検討を行なう。三角関数と積分の問題である。久しぶりに高校の積分を行なう。全部の解答をだすには、高校生では少々難しいが、考え方は高校生の数学の知識で充分である。

1989年1月

 静電気の研究が生活文化研究所で行なわれる。データーのばらつきが大きく、アース、部屋の湿度コントロールなどの対策をするも、期待した成果がでない。やはり糸屑に邪魔されているのだろうか。静電気の研究の前に糸屑を絶対にとらなければいけない、という結論になり、装置の再検討を始める。われわれも15mほどもある空間の高所での砂の投入現場での状況を考慮し、砂作り全体を考慮した装置ということを
重視して、糸くずをとる方法の研究・開発を生活文化研究所と平衡して本格的に取り組み始めた。あと1年が研究期間である。その心の中の「一年研究砂時計」がスタートした。この砂時計は絶対に止まらず、正確で、我々を一秒の時間も待ってくれない。

 7日、昭和天皇、崩御を帰省した九州からの帰りの新幹線の中のニュースで知った。その一時間程前に、砂時計を一緒に研究していたもう一人の若い研究者、武田淳君、25歳が、交通事故で無くなったことを会社に戻って驚いた。冥福を祈る。ついに、一人での研究の体制がしばらく続くことになった。


1989年2月

やはり静電気の研究をやめるわけにはいかず、静電気の専門メーカーのシシド静電気(株)を、筒井理化学器械の社長の紹介で、三輪教授と三人で訪問する。竹内社長が直々、静電分離のことについて判り易く説明して下さった。2月6日のことである。1トン以上の砂から、微量の異物を効率的に分離するには、相当の設備投資が必要となることが判り、頭を痛める。
いよいよ、一年計砂時計用の砂の製造に取り掛かる。まだ、その工程の問題点が完全に解決されているわけではないが、巨大砂時計が成功するには、砂自身の問題だけではなく、砂つくりの工程の検討も行なわなければならないので、砂つくりを始めることにした。研究ということで、研究所への人員の増強はなく、相変わらず全く一人での製造がつづいた。さすがに30kg以上もある紙袋に入った砂を抱えて、不安定な踏み台から供給容器に入れて素早く降り、篩から出る三種の砂を袋に詰めながらデータをとるのは骨が折れ、目がまわった。一日500kgの処理が精一杯であった。そのふるい分けが終わり、砂の洗浄から乾燥まで一人での作業は2ヶ月掛かった。まだ、一人の研究が続く。乾燥した砂は、また、ふるい分けを行なう。その前にふるい分ける部屋の改装である。天上の梁や柱、窓を水道で丁寧に洗い流し、乾燥した後、なれないペンキ屋を行なった。コアラのように梁に登り貼付いてのペンキ塗りは、姿勢も悪くまた顔や頭、眼鏡にペンキが飛んだりで大変であった。そのような姿勢でのペンキ塗りは、普段使わない筋肉を痛め、ふるい分けより一段と骨がおれた。
 これは前工程の粗ふるい分けと違って、ふるいの処理能力は少なく1時間に30kg程度である。一つの缶に30kgが入っている。それを踏台を使ってふるい供給容器に移す。100グラムが20分で終わるような砂時計でふるい分けが巧く行っているか大きい粒子や異物が入っていないかなどを知るために30kgごとにチェックしながらの作業である。
異物チェックの精度を高めるために、そのような砂時計を3個用いての検査をした。ここでふるい分けられた砂は装置の3ヶ所の出口からそれぞれ出てくるために、データをとりながらの作業は忙しかった。どうしても電話や会議などの途中の中断があり、また、途中でデーターの整理をしなければ頭の中が混乱してしまうほどであるから、一日の処理量は、150kg程度が精一杯であった。極力、電話の取り次ぎや当面重要でない会議は断り、砂の製造を集中的に行なった。2月の寒中の中でも、重たい砂袋の持ち運びで、汗と砂で泥塗れになった。風呂を沸かしておいてくれるように家に電話を入れ、片道10kmの道乗りを自転車で急いで帰宅し、汗を流し、疲れを癒した。さすがにこの工程の仕事のときは腰にきた。

1989年4月

 砂つくりの前半が終わってすぐに新しい埃分離装置の製作に入り、手造り一号機ができた。糸屑には悩まされた。いろんな除去方法を考えたが、手作りしやすいことから、頭の中に絵を描いて早速形にしていった。
二週間かかった。丁寧な篩分けを行ない、この分級機を通して砂時計に砂を投入。2時間計が成功し良い結果がでる!。偶然にもその日は、わたしの44回目の誕生日である4月10日のことであった。今まで成功していなかった休止中の2時間計の砂時計が完通したときは思わず一人で万歳をし、ガッツポーズをとり何度も一人で喜んだ。

1989年6月

 回転式10日計ができる。手つくりの新型分級機を用いて砂の投入を行なう。草加市にある柴田科学器械工業(株)の天上の高い実験室で実験をおこなう。砂の投入には、井上さん、三輪教授に助手になってもらった。スレート葺の実験室で汗だくであったが、それでも、今までにない高い天上での実験であり、ゆったりとした開放感が得られた。データーは髭の中村さんが決め細かに観察、記録されていた。土曜日や日曜日の出勤、残業などの出勤をされ、気温の変化や流れの状況が付けくわえられたレポートが14日後に報告された。成功である!。

1989年10月

 三輪教授の設計で筒井理化学器械(株)が自立式茄子(ナス)型一号機10日計をエクスプラロトリアム展で一般公開する。同じく新型分級機を用いて砂を投入する。これも成功する。この砂時計ははにかみ屋で、三輪教授がノズル部分を近づいて御覧になると止まり、そこを離れられると出始めるという代物である。この理由は後の研究で科学的に解明できた。
・研究員一人入社。研究所に配属。中国安徽省出身、王勇君。
・柴田科学の作ったものと筒井理化学の作った2台の10計が成功したことで、わたしの手作りの埃取り装置が砂の中の埃を除くために効果的であることの確信を強くする。技術者としての喜びがそこにある。

1989年11月

 次第に成功の芽がではじめた。これではまだ実験的であり実際の大きさに適用するにはプロセス的に検討しなければならない箇所があり、議論の結果、一年計砂時計のテスト機を作ることになり設計に入る。ガラス製という分けにはいかないので、ステンレスで作ることを基本とした。

1990年1月

 ステンレス製一年計実験機ができる。形は、直径1メートル、円錐部の角度55度を採用した。砂1トンは入る設計になっている。狭く天上の低い部屋に大きな実験機をセットするには苦労した。ジャッキやバール、コロを用いて、1月の厳寒の中、王君と二人で汗だくで押し込んだ。架台をセットしようとしたところ、重心のとり方を間違い、架台が急転し危うく大惨事になるところであった。とっさに架台から飛び下りて二人は運よく難を逃れた。壁の一部を少し壊しただけで済んだ。その壁は我々で修理しなけらばならなかった。なれない壁の修理も大変であった。実際を考慮した工程で砂を投入し実験開始。ストックしていた実際に使う砂を400kg砂を投入する。
 タンクのシールがなかなかうまくいかなかった。タンクのどこからか空気が流入しているのである。最初はシールが悪いとは判らなかった。流れがおかしいと思っていたが、砂時計の内部は殆ど圧力が掛からないから、技術的にはこの位のシール方法で十分であるという設計からのアドバイスで実験していた。しかし、流れ具合がガラスの完全密閉の場合と違う現象が現われた。意識的にシールを弱めたり、柔らかい糊でシールをしたりして検討した結果、やはりシールが不十分であることが判明した。完全なシールができたのは、5月になってからである。
  静電気にも悩まされた。「雷がなると砂時計は止まる」という面白い現象を発見する。この現象は不思議であり、どうしても理解できないので、図書館にいったり横浜気象台に聞いたりして、静電気のことや雷のことを勉強した。雷が鳴ると、大気にイオン団が発生することも分かったが、それが数日間残留するかどうかは分からなかった。横浜気象台も、イオンの大きさなどの記録はないということで、それらとわれわれの現象を結び付けるまでにはいたらなかった。
 一月からの流れは順調に進行し、400kgの砂質と砂投入方法には問題がないことが6月にこの実験が終了したことで確認できた。砂投入プロセスが高い確率で成功するということへの大きな自信が膨らんだ。

1990年3月

 砂時計の圧力コントロールの研究が始まる。王君と二人でのコンビ作業。いつもの『ゴミ箱研究』である。大学時代の研究を思わせる研究風景である。われわれの研究の卵はゴミ箱あさりからはじまる。アイデアはゴミ箱にしまってあるからその蓋を開ける。いいものがいつも出てくる。何が入っているか、いつも心得ているから、そのような知識の箱をわたしは、「研究のゴミ箱」と呼んでいる。さっそく圧力実験装置の作成である。ゴミ箱から良いものを見つけた。ビニールホースである。これをある程度の長さに束ね王君がこれを押さえて圧力発生装置にする。私が圧力監視と流れセンサーである。もっと強く!いや弱く!と声を掛ける。王君はこれに答えて手の力の入れ方を調整する。そのまま一定にしてと我慢して力を入れ続ける。力を入れ続けるのには我慢の体力が必要である。少し休んでまたやる。面白い現象を発見する。それを見るために、今度は、交替して観察体験する。わたしはすぐに疲れる。お互いの苦労が判り装置化のいい検討資料となる。早速、記録計、微小圧力計などの調査をし、購入の手筈をとる。苦労が実るには、時間がかかり、これから3ヶ月後にようやく、装置化の検討に入ることになった。

1990年5月

 三輪教授より仁摩砂博物館の上棟式にまねいて頂く。ピラミッドの大きさに感激すると同時に、絶対に失敗できないという責任感が重くのしかかる。町民の方々も新しい名所が仁摩にできるということで完成の期待が大きくなってきた。三輪先生は、今年の時間の過ぎるのを早く感じられ、問題解決をしなければならない課題の多さに難儀され安心した気持ちにはなれない。

1990年6月

西ドイツショット社より、ガラスが柴田科学に入る。
圧力コントロールの制御方式を検討。有限会社田中軽電工業を小松製作所の大町さんから紹介して頂き、コンピューターによる自動制御プロセスの検討開始する。極微小の圧力制御を空気で行なうことに苦労をする田中さん。それでも断念せずに頑張っている田中さん。
基礎研究的な圧力テストを続ける。

1990年10月

 仁摩町での砂時計への砂投入開始。王勇君、三輪教授の研究室の大学院生寺地君と私の三人。9月28日から10月19日まで。14メートルもの高所での作業である。あたかも60年代の過激な学生運動の砦を想わせるパイプとベニヤ枠組の足場であり、始めの2、3日は足が震えて大変であった。学生運動をやってやぐらに登っていたら、こんなことは平気であったかもしれないと、彼等に学園を占拠され寺小屋授業を受けた学生時代を思い出す。
 柴田科学の仲間の鳶職人さん達の見事な連携プレーにより、砂時計の容器は問題なくセットされた。構造上、できないといわれていたノズル部分の上下の位置と距離の調整は、1mmの狂いもなく正確に行なわれた。

1990年11月

 実験中の仁摩砂時計、閉塞!仁摩町役場の丸山係長から11月6日連絡が入る。スタートしたのは、砂投入作業が終わってから、なぜか一ヶ月遅れの11月5日である。大きな異物が一つ詰まっていた。幸か不幸か詰まってくれたのは、テストのスタートから一日目であった。一日目ではなくテストの終盤であったらと思うと大変なことになっていた。一日目の閉塞は出雲の神様のお助けである。砂時計の中の異物対策はとっていたが、このような大きなものが最初から容器の中に入ったことには落とし穴であった。対策を王君と検討しその足で飛行機で同志社大学に急行した。三輪教授と協議の結果、
『砂を全部だし、再度ふるい分けを行ない最初から投入し直す』
ということに決定した。遅い昼食を王君と学生食堂でとって帰る。

1990年11月15日
  砂の再篩分けのために一人で仁摩に出かける。同志社大学から寺地君が応援に来てくれる。足場を最初から組み上げ、砂時計から砂を全部抜き、再篩をしながら投入し直す。王勇君は会社に残って、田中軽電工業とコンピューター制御の実験を担当した。
11月29日(木)
 会社で夕食を済まし、砂の再ふるい分けのために、仁摩へ出発。3号車17番下の出雲1号に熱海で乗る。朝食は車内でとる。
11月30日(金)
 9時30分太田市駅からタクシーで役場に入る。柴田科学が担当する砂時計の回転調整の日程は12月3日までであったが、柴田科学の大同氏が、12月4日まで砂時計を貸してくれと相談にくる。砂時計の流れは悪い。下の壷から上へ流動が発生していた。下の容器の空気を強制的に抜くために、接続されている6mmのパイプを利用して、口で吸引しても流れない。固定されている二箇所のワイヤーを、少しづつゆるめ、一方で巻き上げるという方法で、一人でゆっくりゆっくり砂時計を回転し0.80mmの網を、ノズルに変えてセットした。もし、大きいものがあれば砂時計から砂を出すときにその網でふるい出そうと考えたのである。よる8時になる。戸締まりをして電車で馬路の民宿へ帰る。傘の骨が折れるのではないかと思われる程の強風雨である。結局傘は用を足さずびしょ濡れである。
12月1日(土)
 足場の周りをベニヤ板で囲うために針金、ペンチ等を購入。(有)金子硝子工芸というところから砂時計の売り込み宣伝が砂博物館に送って来た。ウ・エ・イが入る。宿の車で送り迎えして頂く。王君、田中軽電の田中さんはコンピュータ制御の実験で苦労しているもよう。
12月2日(日)
 網かけが終わる。糸屑のようなものが確認できたが、回収できなかった。しかし、この網か方法はよくない。長い物が通過する可能性がある。
 再ふるい分けの手伝いに、同志社大学の寺地君が馬路にきてくれた。
12月3日(月)
 今日から寺地君が手伝ってくれ、仕事がはかどる。さっそく器材を15メートルの作業台に手で引き上げ、セットする。ホイスト用の電気コードが入らず、仕事が1日近く遅れた。店に電話する「今日の昼に入る約束だが...。」
12月4日(火)
 仁万駅まえにある電気店に昨日注文していた電気コードを一番に取に行く。いつも申し訳ない。宿の奥さんに今日も店まで送って頂いた。電動ウインチを改良。試運転OK。柴田科学(株)担当の回転テストが予定より遅れ、砂の再投入が遅れた。それでも、一缶ほど入れた。今日は19時08分の電車で寺地君と馬路へもどる。
12月5日(水)
 静電気の発生が強く、どうしても砂の入りが悪い。静電気を逃がすように砂時計の下の容器の流入口を改良した。流れはよくなり気持ちに余裕が出る。19歳から23歳ほどの若いコンパニオンの4人が来て、館内が急に賑やかになる。午後1時20分三輪教授と井上さんが見え、テープ年表作りのメンバーが揃う。テープ年表とは、幅2cmほどの紙テープの長さの1cmを千年として地球誕生の46億年分の長さにして、時間を帯の長さというもので表現しようとするものである。46億年は、このテープでは、長さが46kmとなる。それを巻とると直径は4mほどにもなる。
12月6日(木)
 仁摩に来て1週間が過ぎた。今日は砂の入りが少なかった。静電気のため網の通り少なかった為だと思われる。夜、大田市へ慰労に行く。丸山さん、田中さん、杉原さん、コンパニオンの森山嬢、武下嬢、柴田科学の大同さん、それに寺地君。
12月7日(金)
 砂再投入作業16時40分に終わる。網掛けをしようとしたが、糸屑
らしきものが確認されたのでそのままにして触れず、明日に仕事を延ば
した。7時頃教授と皆で宿に帰る。
12月8日(土)
 砂時計に530ミクロンの網を掛ける。下の容器の砂を全量通過させる為である。回転させ砂を流しはじめる。館内のテープ年表の進行が遅い。助っ人に3人の女性が加わり、益々賑やかな年表つくりの館内となる。寺地君は、皆で記念写真を撮ってから、11時15分の汽車で京都
に帰って行った。
12月9日(日)
 砂の流れがまた極端に少なくなってきた。5日の状況と同じように静電気の発生がひどくなってきた。砂時計の喉の近傍のガラス表面に、黒い雲母がたくさん付着している。流を止めて静電気が逃げるのを待って再度流しはじめるという方式をとった。流は少しは改善された。
 テープ年表の作業が大幅に遅れているが、三輪教授と井上さんは、それぞれ帰られた。
12月10日(月)
 網の変わりに使おうと作った多くの小さな孔を開けた小さな円盤、マルチオリフィスがやっと出来、郵送されて来た。孔の大きさが不揃いである。使用しないことにした。
12月11日(火)
 網通しを始めてから4日目に入る。流れが少なく2/3程度が流れ落ちた。強い雨である。雷も鳴り響く。会社で、(有)田中軽電と王君が研究しているコンピュータ制御の出来が気になる。完全に流れ終わるまでまって、今日15時57分の汽車で帰る。強風雨のため夜行列車は、進路を変更して伯備線に入った。一昨年の餘部(アマルベ)鉄橋を通過していた列車が強風のために転覆した事故を思い出した。

 以上は、砂再投入の毎日の簡単なメモである。約2週間休み無しの砂投入で流石に連チャンは疲れた!。

1990年12月24日

 砂時計流量制御の装置設定と砂時計スタート本番のために、仁摩に出かける。ぎりぎりに間に合ったコンピュータ制御装置を田中さんの車に積んで三人で夕方平塚を立つ。夜中交替で運転。夕食、夜食、休憩をしながら、何度も狸のでる国道375号線の山道を走って、仁摩町に25日朝5時に着いた。しばらく役場の駐車場にエンジンを付けたまま駐車し仮眠をとった。エンジンが掛かっていても足元は冷たかった。8時頃目が醒めた。目が醒めたのは8時ではなく、食事に出始めたのが8時であり、疲れていたにも係わらず熟睡はできなかった。近くを通る自動車やエンジンの音には幾度となく気がついてはいた。ミュージアムの西にある喫茶店で、コーヒーとトーストのモーニングサービスで朝食をとった。
 これから毎日、徹夜作業が続く。実験の結果通りにいかず流れがうまく制御できない。大きな砂時計を何度もカリカリとウインチを巻き上げ巻き戻しながら実験を続けた。交代交代で巻き上げた。時間ばかりが過ぎていく。ぎりぎりでアイデアが浮かび間に合った。クタクタ!30日夜10頃に制御系完成。

1990年12月31日

 田中軽電の田中さんは、ひる頃仁摩を一人で出発。疲れているのに疲れを取る時間もなく一人で運転して帰られる田中さんに申し訳なく思い別れを告げる。帰りは、狸の出た375号線は止めて、浜田市から、浜田自動車道を抜けて、千代田インターから中国自動車に乗って帰ることになった。安全を祈る!

 砂博物館や砂時計の名称が決まる。博物館は大阪府高槻市の池永一広さんの命名で『仁摩サンドミュージアム』と、そして砂時計は大分県宇佐市の用正由城光(ヨウショウ ユキミチ)さんが命名された『砂暦(スナゴヨミ )』に決定した。

 同志社大学教授の三輪先生は、この砂時計に対して自然の大切さをつぎのように託されている。

 「この鳴き砂の浜辺を捜して回りますと、年ごとに無くなっていくんです。行ったところではそれが岩壁になっていたり、ヨットハーバーなっていたりして、もう姿はなくなってしまうのですね。それを見ていると、とてもじゃない。それじゃ日本列島が滅んだ、という気持ちがしますから。ここで、こういう砂時計を作るということで、これをもとにして、この浜辺から日本の自然を残すという一つのきっかけを作ったらいいな、と思います。」

 いよいよ仁摩町の世界一大きな一年計砂時計『砂暦』が午後11時55分から回転し始め、1991年零時、元旦からわれわれの大きな実験が始まった。・・・砂時計の本-02//

共同研究


 このような長い研究で、その研究の後半になっても成功の目処が全くでない時、時間が無常に過ぎていく。
 切迫感は、どうしても態度や顔の表情に出るらしい。社長も、研究室にくる回数が多くなり、進行状況の報告を聞きにくる。社長の顔色も時間の接近に従って変化していることが、われわれにはよく判った。社長はいろんな人への応援を探していた。いろんなアイデアを持って来てくれたことは嬉しかったが、初めてのものに挑戦しているときの、にわかのお手伝いは時間の無駄でしかなかったようである。何回かのうち、出雲大社のお守りまでも持って来てくれ、われわれの苦労を癒してくれた。いつも見える掛け時計の横の壁に祀った。
 初めてで誰もやったことのない研究は、あせってもどうしようもない時がある。図書館にいっても文献があるわけでもなく頭が痛くなる。そのような時は、別のことを考えることである。われわれは、同志社大学の三輪教授のご指導のもとで共同研究をしている。東京の日暮里にある三輪教授の生活文化研究所が我々と平衡して砂時計の研究をしていた。われわれがうまくいってない時には、電話をして、そちらの状況を伺ったり、またそこを尋ねたりして、われわれの失敗の結果を話したり、肩のこらない話をしたりした。その中での小さな失敗にちょっとしたヒントがよく出て来たものである。糸屑が、どうしても砂時計の中に混入している。砂を投入している時に、砂時計の小さな砂投入口からでも、糸屑は混入するということが、原因であるということなどは、そのようなリラックスした環境からの大きなヒントであった。
 糸屑が小さな孔から入るということは判ったが、なおも砂時計は成功していない。栓を開けなくても完通しないということは、最初から砂に糸屑が入っているわけである。砂の中の糸屑をとる方法を開発しなけれは砂時計は成功しない。そのような考えのもとでわれわれは砂の中から糸屑を除去する方法を開発しているところ(1989年3月)であったが、確信を持つほどまではいったなかった。同時に生活文化研究所も一日計を並べての実験を行なっていたが、どうしても完通させることができない状況にあった。ある出張で生活文化研究所に立ち寄ることがあったので一日計の状況を伺っていた。教授も在宅であったのでいろいろと三人で議論を交わした。教授にお願いして、私の手作りの風力分級機を使って診断させてもらうことにした。
 さっそく、2つお借りして帰った。ガラス内部を洗浄・乾燥して、実際を考慮した方法での砂投入をして実験にを始めた。最初はどうしても通過しなかった。何回か砂を出して風力分級を通したが、無理であった。これまでには数時間計の砂時計は風力分級機を使って成功しているので自信はあったが、この大きさになってだめということはどうしても納得が行かなかった。原因は糸くずではないという確信はあったが、不安が走った。詰まるたびに詰まったところをよく観察しても糸屑は確認できなかった。どうも砂の粒度が大きいような詰まり方であり、もう一度砂を出して、ふるいで少し細か目の砂に調整して投入した。結果は成功であった。もう一つの1日計の砂時計も同じように処理して、一日計が2個とも成功した。診断書を添えて、三輪教授に送った。生活文化研究所で大きなものにチャレンジしている。われわれは風力分級の研究をしている。その両方がうまい具合にマッチしてその成功に到達した共同研究の良いところであった。平衡した研究が重要であることを教わったものである。

  競争の原理− 仙台砂時計と金子硝子工芸 −


 我々の砂時計の研究が始まるのとほぼ同じ1987年9月ころ、仙台市でも大きな砂時計製作の計画が持ち上がっていた。この計画は、市政百周年を記念して1989年に開催する花と緑の祭典「' 89グリーンフェア仙台」の目玉として、80日間開かれる祭典にちなんで80日計を製作することになり、東北大学近藤純正・理学部教授(地球物理学)の指導のもとに研究がはじまっていた。完成したその砂時計を三輪教授と井上さんと見学にいった。容器の形は砂時計のイメージを少々欠いてはいたが、大きな容器に付いた小さな孔から流れ出る砂には、やはり粉屋として大きな感激を覚えた。
 研究のスピード化には、いい意味での競争が重要である。近藤教授のグループの計画も、大きさと言う点からは初めての挑戦であり、不明なところばかりで、いろいろと検討がなされているはずである。われわれも研究の中で、何が原因で閉塞したのかを討論するに際しては、たとえば、静電気対策はどうしているのだろうか、空気の置換はどう対処しているか、砂の精製はどのような方式を採用し、粒度巾はどの程度か、どこまでの段階まで進行しているか、などを時々思い出しながら研究を続けた。わたしとしては、この仙台の砂時計の研究は励みになった。1991年4月10日、80日計砂時計の砂つくりを担当なさた(有)金子硝子工芸の金子実さんにお会いできたが、金子さんも同じような心境で砂つくりの研究に頑張っていらしゃったということで、競争の原理の大切さが身にしみて感じられた次第である。帰りには、素敵な砂時計をたくさん頂き、大変な記念になった。お目に掛かれたのが、お互いに砂時計の製作が終わってからであったので、研究中は議論できなかったが、これはしかたないことかもしれない。ソ連とアメリカが宇宙開発の研究をしているのと同じであるから。

1991年の砂暦

 スタートは無事に行なわれたが、その4時間後には砂時計が止まってしまった。コンピュータの電源が切れていたのである。仁摩の宿を離れようとした矢先に電話が掛かってきて、仁摩サンドミュージアムに帰る支度をして駆けつけた。勿論、長引けばもう一日でも仁摩に止まる覚悟である。どうにか、40分くらいの調整で砂時計は動き始め、5分程しかない汽車の発車時刻に急いだ。役場の総務課長であった藤山さんにJR仁万駅まで車で飛ばしてもらい、寸前で間に合った。9時33分の下関行きの急行「さんべ」に飛び乗った。湯里,温泉津と二三の駅までは覚えていたが後はもう昼食も取らずにぐっすり眠ってしまい、目が醒めたら、あと十数分で下関終点であった。
 二度目の正月を母の用意してくれた料理を取ながら、母と姉達と世界一大きな砂時計の談義でゆっくりとした正月を迎えた。「よかったね、大きな仕事をさせてもらって、町長や三輪教授に感謝しなければね。これからが技術者として責任があるからね、立派にやっていきなさい。暖ったかくなったら、見にいくからね。その前にNHKのテレビを楽しみにしてるよ。」と、母。残念ながら、湾岸戦争のために、九州地方など放映されなかった。
 正月は、プラットホームまで来てくれた母と姉に見送られながら、郷里大牟田を7日に離れ、仁摩に立ち寄った。砂時計は無事に流れていた。まだ、一般公開されてない仁摩サンドミュージアムは、人気はなく、静かにひっそりとしていた。
 3月3日は、仁摩サンドミュージアムのオープン式典が行なわれた。残念ながら我々二人は出席させてもらえなく、魔の砂時計に足止めを食らわされた感であった。これがやはり企業の砂時計であると思わずにはいられなかった。いままでの砂時計に関するイメージが大きく変転した。
 4月なぜか調子が悪くなった。ミュージアムの電気系統のまずさもあったが、原因不明な点が多く出た。しかし、トラブルとしては大したことではなく、一時期の砂時計の停止である。それにしても面白くない。
砂の中に大きなもの糸屑があるなどの問題ではなかった。
 コンピュータの環境が悪く、コンピュータの本体を冷房で一定温度にコントロールする設備をもうけることも行なった。6月のことである。大町さんが作ってくれた。
 10月3日、10月5日の皇太子の仁摩サンドミュージアムへのご両敬に備えて詳細な点検のため仁摩に出張。4日に調整を終えその足で帰宅する。4日のJR出雲市駅は物々しい警備が引かれていた。柴田科学の大同氏も点検に来た。彼の仕事が柴田科学としての砂時計の最後になることが、数ヶ月後の挨拶状で判った。この暮れには当然調整には顔をださなかった。退社したのである。 これまで何度かの調整をしたが、それでも砂は順調に落ちつづけ、三輪教授、王君それに私の関係者三人だけが見守る中、12月31日午前11時54分10秒に完全に落ち切った。それにテレビの報道があと二人そのことを記録してくれた。イベントとしてはさみしい流れの見取りであったが、いずれにしても貫通したことはわれわれ粉屋そしてエンジニヤにとっては最高の喜びであった。14メートルのステージの上で万歳三唱をして三輪教授、王君と三人で祝った。

1992年の砂暦

 無事、1991年を終えた砂暦はまた新しい仁摩の一年を刻み始めた。コンピュータのソフトやミュージアムの電源等の改善がなされた砂暦は、今日現在(9月15日)順調に流れている。その量も、7月3日の推定値としては、一日も狂ってはいないという報告書を提出した。いまの時点では、落ち切る砂時計の時を待つしかないといった状況である。 砂時計が作られた理由を、泉道夫町長は、3月12日に行なわれた鳴き砂サミットで、次のように言っている。
 「この砂時計は琴が浜の鳴き砂のシンボルとして作られたものであるが、この砂時計を計画しました理由は、一つは過疎に悩む当町の鳴き砂の浜、琴が浜の砂をモチーフにしまして巨大な砂時計を作って町のシンボルにしようじゃないか。これが一つめの狙いで、二つ目にはこれを見にくる人を増やそうではないか。つまり通過人口を増やして、そうして必ずやそれが第一次産業、第二次産業、第三次産業を刺激するに違いない。活性化するに違いないということが狙いである。三つめは、これが大切な目的で、全国で十数箇所ありました鳴き砂の浜がもはや数箇所になった。環境の悪化で大変に少なくなった。そういう点から自然を守ろうというシンボルにしよう」と。この三つの考えで作られたのである。
 3月12日には仁摩サンドミュージアムで、「鳴き砂シンポジューム」が開催された。「エジプト文明と砂」をテーマに早稲田大学、吉村作治助教授の講演、三輪茂雄教授の「中国の鳴き沙の現状報告」それに横田順彌SF作家を交じえて「砂語りサンドサウンドトークショー」が行なわれた。最後に日本各地の市町村からそれぞれの町村の鳴き砂の現状報告がなされ、以下のような、サミット宣言がなされた。
 この文章は丸山係長が考えたものなので、丸山君にやってもらおうと、急遽町長のご指名で、町長に代わって丸山係長が読み上げられた。『本日、貴重な「鳴き砂」を媒体として自然保護について環境のみなさまとともに考え、交流を深めてまいりました。この集いが将来の新たな交流と鳴き砂ネットワーク確立の第一歩として、参加者の総意により次のとおり宣言します。 
 白砂青松の鳴き砂の浜は、古き昔よりかけがえのない宝物として大事に守り続けられてきました。美しい音色のミュージカルサンドは、気の遠くなるような時間と絶え間ない大自然の営なみが生み出した「妙技」です。
  その白浜が海の汚染と川の汚濁、海岸の人為的変形やゴミの投棄などの影響を受け、近年つぎつぎに消滅しつつあります。
  伝統に語られ、歌人が愛でたこの自然の芸術・鳴き砂を未来の世代へ伝えることが今に生きる私達の責務であることを認識し、自然環境の保全に積極的に取り組んでいくことをここに宣言する』
            1992年3 月12日
         日本鳴き砂サミット仁摩会議

 砂時計の役割も大きく、大きな目標を担っているのである。

1993年の砂暦

 92年は12月31日午前11:45分に終了した。スタートには少々戸惑った。6月9日明日の時の記念日として音楽会が行なわれた。
1月から7月初旬まで順調に推移したが、7月19日にコンピューターの表示がおかしいと連絡が入った。7月26日診断した結果、システムディスクに原因不明の大きな傷が入っていた。システムを替え、再セットし正常に流した。新しいコンパニオンが採用されていた。宮脇かおるさん。9月21日は大和田雅子さまのご両親がミュージアムを見学され、町長が案内をした、と写真入りで丸山課長から連絡が入った。11月22日、日本テレビが「砂時計の下部の容器を暖めると何故止まるか」という表題で取材にきた。放送は、金子工芸硝子の金子さんも出られた。砂時計に関する興味が皆にあることを表わしている。11月26日砂暦の調子がよくないと連絡が入ってきた。チェックして、流れの調整をした。今年は、2回のチェックで手の掛からない年であった。そしてことしは12月31日14時31分に三輪教授、王くん、メグさんそれにお客さんと私の5人が仁摩町の一年の終わりを見届けた。

1994年の砂暦

 回転の調整は中々うまくいかなかったが、スタートは予定通り、気持ちよくスタートできた。九州での正月を迎え、元旦が終わる15分前にミュージアムから電話が入った。「流れが断続的である、どうしたんですかいね」と、丸山課長。6日に山陰経由で仁摩に行き、チェックする。
温度の変化を吸収できない状況が続いた。センサーの調子が悪くなっていた。丸山さんが、4月財政課長として他部署に移られた。5月2日、アキシノノミヤご夫妻がミュージアムを見学され、鳴き砂で作った蛙砂に大変な興味を抱かれたという。新しい小林和子コンパニオンが採用された。4月、松浦コンパニオンが結婚で辞められた。7月砂時計が止まった。それど同時に、砂が非常に少なくなったていた。「お客様も気がつかれます」これは大変、そんな状態なら、あと2ヶ月ほどしかないと、思えた。正確なチェックでは、40日ほどしかなった。これまでの研究によると急激な温度変化に追随できない状況になっているということが考えられその対策を立て来年度のスタートにそなえることにした。応急策を定出して、わたしは徳寿を辞めた。
 11月17日には、中国蘭州砂漠研究所、アメリカのミシガン大学、オーストラリア等の出席で世界鳴き砂サミットがお行なわれた。沙漠の鳴き砂が観光で消滅し始めているということが発表されたという。
 1994年の大晦日には、応急策をもとにし圧力制御系のオーバーホールをして、スタートしたという。無事に作動していることを聞いて安心した。

涙 の 日 々 続 く

 砂時計のスタートが迫った1989年初秋の頃、三輪教授は、砂時計の苦心をつぎのように歌に詠まれている。

 砂時計つくり

 ながき苦心の砂づくり 涙の日々を誰か知る
 一日計から十日計 一年計への遠い道

明日こそは明日こそはとて ノズル見つめて今日もまた
 砂は流れず時のみ流る たった一つのゴミ拾う

 砂粒ほどの貝殻に なぐさめられて砂ふるう
 健やかなりや微小貝 おもかげ求め浜に立つ

 5月の田圃にかわず鳴く 砂も目覚めて水の中
 ククク クククと囁いて 太古の夢をかきたてる

 朝日に輝く砂浜に キラリと光るひとつぶの
 傷ひとつなき結晶が マグマに浮かんだ日を想う

 装置化の研究をしている担当者の砂つくりの状況もまったく同じである。

[悪戦苦闘の砂つくり]

−技術の話し−

★よく観察する

 砂時計と仲良しになる。友達になると、砂時計は、いろんなことを教えてくれる。友達になるにはこちらから話しかけなければならない。実験に際して、一分計から十日計まで数多くの砂時計をつくり、砂も人工の粉から天然の砂、それらの組み合わせで種々の実験を行なった。実験の場所は一箇所だはなく、三箇所いや四箇所である。 砂時計は、砂の洗浄方法、砂の精製について、砂の大きさや粒度分布、環境温度影響の程度、また、人生哲学、そして人間の考え方、人の見方をも教えてくれた。善き友を得た、また、去っていった。
 砂時計は、1分や10分などの小さなときは、気がつかなかったが、大きくなると環境温度の影響を受けて来るようになることがわかっり、興味あると同時にまた問題が大きく立ちはだかってきた。砂時計の一方を暖めると、例えば下の容器を暖めると、砂時計の砂の流れは一時的に止まってしまう。逆に上を暖めれば時間の流れが速くなる。砂時計の中の空気が、膨張収縮しているのである。一年計もの大きな砂時計では、僅かな温度変化でも流れに大きな影響を与える。これはボイル・シャイルの法則で理解できる。砂時計の内部の圧力を計測していると、環境の温度に追随して変化していく。あたかも砂時計が大きな温度計のようである。これに伴って砂の流れが変わるのである。

砂の大きさを揃える

 砂の精製は、重要である。砂の大きさを揃えるには、目の大きさがよく揃った網を用いなければならない。目の大きさがバラバラでは、目的の砂の大きさに揃えることができない。後でも述べるように、網はふるいの装置以上に重要である。ここに用いた砂の最大粒子は、150ミクロン以下でなけらばならない。もし、網の目開きにばらつきがあったら、150ミクロンを超えた砂が一個は通るでしょう。それを防ぐには、ふるい分け能力が落ちてくるが、150μmより小さい網目の網を用いてふるい分けるか、または、ふるい分け操作を何回も繰り返すかの方法しかない。網目のばらつきが砂の精製に如何に重要か、どなたでも理解できるでしょう。砂時計の砂のふるい分けは、平均的な粒度ではだめである。150μmより大きな砂が一個でもないような精製をおこなわなければならないところに、ふるい分けの操作に神経を使うのである。網は砂粒で詰まってくる。網の素線の太さができるだけ細い網を用いると目づまりし難い。しかし、線が細くなると、網の寿命が短くなる。どの位の寿命かは操作条件によって変わるので、経験のない操作では推測することは不可能に近い。砂つくりでは3トンの砂をふるい分けたが、途中で3回破れた。この破れがいつから始まったか、ふるい分けの途中では判らないのが現状であるから、せっかくできた砂も気付いた時点で、数ロット前のものから再ふるい分けをおこなわなけらばならなかった。
 ふるい分けに使用した装置は、ここでは面内水平旋回式のふるいである。この装置は、粒子と網面が常に接触しているから、網を通過する確率が高いといわれる反面、非常に目詰りし易い運動のふるい分け装置である。目詰り対策としては網下から弾性の高いゴムボールで網面を叩く方法を採らねばならない。必ずそのゴムの摩耗粉が出るからこの対策が必要になる。それは次の工程で水洗浄を行なうことになる。

砂の表面を水できれいにする

 砂の表面には、微塵や種々の汚物が付着している。二次的な汚染である篩分け装置からのゴム粉も混入している。これをそのままにして砂時計に使用するわけにはいかない。使用中に発塵して砂時計の内部を汚し、ノズルに付着し流れを変えてしまうことになる。したがって、砂の表面の洗浄や混入物の除去が必要になる。ここでは、水による洗浄を行なった。
 洗浄していない砂を用いた砂時計は、大きな異物がなけば砂の流れはさらさらと流れる。しかしこれはすぐに内部が微塵で汚れ始める。そこで砂の洗浄を強化していくと、異物がないにもかかわらず、ついに流れなくなってしまう現象がでてくる。これは石英砂特有の性質で、洗浄により砂の摩擦係数が次第に大きくなったからであることがわかった。そのことは、粉体の安息角というものを測定することで知ることができる。
砂時計の砂の洗浄は無闇にやってはいけないことを知ることができる。
 洗浄後の砂の乾燥は、高い温度で行なった。高い温度を用いた理由は、水洗浄でとれない表面に付着している有機物や油分、ふるい分けで発生したゴム粉などは、120℃ほどの低い温度では飛ばなく残留し、砂時計の中で長い時間に凝集の原因になると考えられたからである。この工程では、砂の中に含まれている鉄分の除去もでき、予定外の効果が現われた。

★異物を取り除く

 砂時計には、粗大粒子と異物とくに糸屑は大敵である。粗大粒子の除去には目開きの正確な網を用いればよいが、糸屑は、残念ながらいくら正確な目開きを持った網でも取り除くことはできない。ここでは、比重の差を利用した流体分級を採用することになる。この分級機を用いればよいことが判ってきたのは、砂時計を研究し始めてから相当の時間が費やされてしまった後であった。しかし、ここまで到達するには、考え方を変えなければならなかった。その考え方を変えることに、3年近く掛かった。砂時計の開発の初期には、ほこりが入らないような砂つくりの工程を真剣に考えてきたのである。ふるい分け装置の密閉化、砂ストックの容器の完全密閉化、さらには全工程の無塵化などである。実際に実行したものもあった。例えば、ふるい分け装置を新調し、容器に直接にストックできるような工程を組んで砂を精製してみた。誰もいない早朝のうちに、風上でふるい掛けをして、その砂を用いてのテストも何度かやってみた。しかし、結果はいずれもだめであった。何回ものほこり除去テストをしているうちに、たとえおのおのの工程が成功していたとしても、全体の砂時計製作の工程の何処からか必ずほこりの進入があることに気がつき始めた。実験の工程は、それぞれ単独で処理されているか、一つの工程が終わって次の工程に進む時に、ほこりが侵入しているはずであると考えた。これではたとえ実験的に成功したとしても、大きな砂時計の成功には到底到達しない。各工程の単独でのほこり混入防止対策の研究は諦めた。

埃は砂の中に入ってもよい

 そこで、考え方を大きく変え、非常識と思えるような考えを採った。
 『ほこりは、砂製造工程では自由に入ってもいい』
 『しかし、最終の砂投入の時には関所を設け砂とほこりを分離します』
という自由な考えにした。
 このような、発想の転換により、「関所の研究」というテーマで研究の振り出しに戻ったのである。例えば、以下のような方法を検討した。
 1)流動層方式−−底に網を張た円筒容器に砂を入れ、底から砂が飛び出さないような風速で糸屑だけを吹き飛ばす。
 2)焼却方式−−−過熱板や火炎中を通して糸屑を焼き切る。
 3)とうみ方式−−風上で風に砂をさらすこと。唐箕と書き、穀物を精選して籾殻や塵芥を風で除く農機具である。
 4)水洗方式−−−水で軽いものを洗い流す。折角乾燥したのにまた濡らし、乾燥することは大変である。
 5)風力分級方式−とうみの考えに近いが、唐箕が古来の物であるの対し、新しい装置として何か開発する。
 頭の中の設計図で簡単に製作できると思われたのは風力分級方式であるので、早速、手作りで作り上げ、研究を始めた。今まで長い時間やってきた埃が入らないような砂作りの研究が無駄のように思われるが、このような研究がわたしの研究であると理解させ、説明すにのに苦労した。
砂時計が終わってからのこの論理は、中小企業ではついに受け入れられ
なかった。

  [網は神様]

 砂時計の砂の中に大きな異物があるかどうかを知ることのできるのは神様だけである。砂時計に作りあげてしまうと、もう他から異物が入ることはないが、本当に異物が入っているかいないかを知る術はない。1トンの砂の中に混入しているかもしれない一個の大きな物を知ることができるのは、砂時計の小さな孔を通過させて塞まれば、入っていたということがでしか判らない。それでは砂時計の時の流れを待つしかない。
そこで、砂時計に入れる砂に大きなものが入っているかを調べるには、別の砂時計に入れ、砂時計の孔をセンサーとして使えば実際的でいいかもしれない。砂時計をたくさん準備してチェックしようと、これも実際には検討した。しかし、時間がたらない。砂の中の異物の存在を知るのことができるのは、神様だけである。「神様」か、・・・・。しかし、われわれには神様が網という神様を与えて下さった。網を上手に使うことが、砂時計屋であり粉屋である。網と粉のあやつり方が、コンピューターでいうところのソフトである。砂時計製作での異物との戦いにパウダーテクノロジーのおもしろさがある。砂の大きさを揃えるには、ふるい分け装置を用いるが、その前に網をうまく選定しないと、異物のない砂にふるい分けることができない。ふるい分け装置があっても網がなければ当然、篩分けは成り立たない。網が如何に重要であるかは誰もが言うことである。網目の大きさが揃っていることが、立派な神様。そしてすっきりした網に見える網をもちいることが、立派なふるい分けを達成するために必要なことである。網の選定には神経を使った。

[一年計砂時計の形と大きさ]

 砂時計の形は、普通は算用数字の8の字をしている。これは砂時計が発明されたころから変わることはなく今に続いている。十五世紀のイタリアルネッサンス的美の理想を創りあげた偉大なドイツの芸術家アルブレヒト・デューラーの作品の<騎士と死と悪魔>などには、8の字の上下が平らになった形をした砂時計が描かれている。エルンスト・ユンガー著『砂時計の書』には多くの砂時計が紹介されているが、大体、8の字のような形をしている。長い円筒ガラスに印の付いたものや、数段のくびれを持った砂時計などがあり、砂時計から、やはり途中の経過をなんとか知ろうとした工夫の後が見られる砂時計もある。単純な形の砂時計には、それを支えるためと、ガラスの保護のためにいろいろな装飾がガラスの周りに施されている。これによって、砂時計のイメージが大きく変わるものである。
 1988年仙台で作られた砂時計は、デューラー型であるが、大地にどっしりと根付いた感覚を与えた。
 今回仁摩町に作った砂時計は、時間の経過というものを知るということは本来の砂時計の趣旨から外れるという観念から、目盛りを入れたりせず、時間と空間を重視した8の字を基本形としている。一般的に知られている砂時計は、やはり8の字ではないだろうか。その形はどことなく親しみが湧いてくる。そして8の字は、砂時計が繰り返し転倒され永遠に時間を造るように、無限を現わしている。8の字を横にすれば、その形は数学記号の無限大(∞)を現わすのである。また、8の字は一筆で書け、同じ所を通ることなくまた終わるところがない。1から10までの数字でそのようなものは、それだけである。
 一年計砂時計の形状は、そのような思想のもとで、同志社大学の三輪教授が設計された。その形状を図−**に示した。教授は粉体工学の世界的な権威者であり、芸術的な形からの設計だけではなく、砂が流れる為の粉体工学的技術の面からも考慮した詳細な形状設計が行なわれている。円錐部分の傾斜角度は、砂が完全に自重で滑り落ち切るために55度とする。8の字の膨らみの部分は、半径1000mmの円弧を用いる。そして垂直円筒部分の高さは500mmとし、頭部は半円とする。上下の容器の間隔は、300mm以内とする、など詳細である。従って、砂時計の内部の容積は、幾何学的な計算によって正確に求めることができる。各部分を別々に求め、容積は
半球部分
  V1=1/2×πD3/6
円筒部分は、円筒の高さをAとすると、
  V2 =3/2 k×πD3/6,k=A/D
8の字の曲線部分
 V3=3/2 {con θ−(1/3)cosθ−sin2θ−π(1−θ/90)}×πD3/6
円錐部分
  V4 =1/4(2sinθ-1)3tan θ×πD3/6
として求められる。従って、全容積VT は
  VT =V1 +V2 +V3 +V4
これは、
  VT/( πD3/6) =0.5 +1.5k+f( θ)
で表現される。
 この最後の式は、重要な物理的な意味を表わしている。
 1)左辺の分母のDは、市場のガラスメーカーの技術に左右される因子
 2)右辺2項のkは、どれだけの時間の砂時計にするか及び、砂時計の幾何学的美観を表現する因子
 3)f( θ) は、砂の物性とガラスの特性により決定される因子。主に砂の特性により決まる因子である。
 砂暦の形状は、市場の技術と粉体物性それに時間により一義的に決まることがこの式から判る。
 砂暦の形状はこのようにして決められており、砂時計は、砂の特性が如何に重要であるかがよく理解できる。また、小さなノズルの形状がさらに重要であることも、この式から理解しなければならない。このことが理解できれば立派な粉体技術者である。
 実際の形状と寸法は図に示す通りである。
砂は1トンが入っている。バランスのとれた凛々しさを感じとれる砂時計に出来上っているのではないだろうか。
 この設計に従って、柴田科学器械工業(株)が強度計算をし、その設計書に従ってドイツのマインツ市にあるショット社が、ガラス容器を作ってくれたのである。ガラスの厚みは、薄いとこでも1.6cmほどある。

[砂時計のスケールアップとは?]

 スケールアップとは、実験室で作った小さな装置などを次第に大きくして、いわゆる製造工程や実機につくり上げて行くことであるが、砂時計の場合も1分計から1年計に大きくして行かねばならない。ここで重要なことは、そのとき孔の大きさも大きくするのではなく、孔の大きさは1分計でも1年計でも同じである。ここが砂時計のスケールアップの面白いところである。砂の大きさも同じで、違うのは容器の大きさだけである。単に流すだけであるならば、孔の大きさは、大きい方が粉屋としては簡単であるが、孔を大きくすると容器の大きさがそれだけ大きくなるから、無闇に大きな孔にはできない。更に、使用する砂の量が1トンであるとういう条件があるので、孔の大きさは、孔から流す速さで自ずと決まる。それは1時間に約114grを流さねばならない。1分計から1年計の砂時計を完成させるには、孔の問題だけではなく、砂つくり設備やその工程管理、砂時計に入れる砂入れの工程と管理等、化学工学的な考えが必要になってくる。粉屋と違った考え、研究が必要になる。

[砂暦のセッティング]

−恐怖のスケールアップー

 さていよいよ、基礎実験をもとにしてた現場への移動が1989年10月に始まった。成功の確信を持っているにしても、やはり、世界で始めてのものを行なうには緊張をするものである。時間が経過しても、その緊張した気持ちが少なくなるのではなく、逆に大きくなるのである。このときは、自分がやってきた基礎実験を信じることで、緊張の気持ちを静めていった。目の前の小さな砂時計から14メートルもある高さでの砂の投入は、さすがに目を見張るものがあった。大きいということは心得ていたものの、実際に目の前にはだかるこれほどの大きな砂時計のスケールアップをしなければならないのかと唖然とした。しかし、基礎実験の段階で、砂投入でのいろんな想定の実験をしていたので、技術的には強いて新しいことをやるとは思っていなかった。従って、技術に関しては、実験室の延長線上にあるという気持ちであったので心配は全くなかったが、予測できなかったことは、高所での作業である。この高所での作業は、実験室でのスケールアップはできなかったものである。高所での恐怖はどうしようもなかった。しかたない、現場でやるしかない。
「高くても板の上は平地と同じだ。平地では狭い板の上ではすいすい歩けるではないか」と自分に言い聞かせながら作業した。段々なれてきたが、それには、プロの意見をよく聞いたためである。安全ベルトの絞め方、軍手は厳禁、ペンチなど工具は必ず紐に結んで一方を身体に固定しておく、靴紐はきちんと固く縛っておく、ヘルメットはきちんと必ずかぶるなど教えてもらった。最初は安全ベルトを二本使ったりもしたが、専門家の意見は恐怖の排除に大いに役にたった。もっとも重要なことは気を抜かないことである、と付け加えられたことが耳に残っている。

[”成功の芽”から”成功の確信”]

−技術者の喜び−

 ある目標のものの完成の芽が見えてきたときは、技術者だけではなく誰でも心がときめくものである。埃との長い長い戦いの中で、砂時計の研究で最初に出てきた難関は、実験で解決できるような問題ではなく、「いまやっている研究方向は間違っていないのだろうか」、「この方法では成功しないのではないか」と、いうような先が見えないことである。しかし、これを乗り越えなければ成功の糸口にはたどりつけない。以前に読んだ湯川秀樹の『旅人』の一節を思い出した。「未知の世界を探究する人は、地図を持たない旅行者である。地図は探究の結果として、できるのである。目的地がどこにあるのか、まだわからない。もちろん、目的地へ向かっての真直な道など、できてはいない。目の前にあるのは、先人がある所まで切り開いた道だけである。この道を真直切り開いて行けば、目的地に到達できるのか、あるいは途中で、別の方向へ枝道をつけねばならないのか。

「ずいぶんまわり道をしたものだ」


   というのは、目的地を見つけた後の話である。後になって、真直な道をつけることは、そんなに困難ではない。まわり道をしながら、そしてまた道を切り開きながら、とにかく目的地までたどりつくことが困難なのである」
 博士の言葉に勇気つけられた。今となっては自分のやり方に自信をもつしかない。これまでの成功した仕事や失敗した経験を振り替えることが第一であると思った。一年の砂時計など、だれもやったことがないので、誰に聞いても答えが出るはずがない。いままでの研究の経験で進めるしかなかった。わたしは研磨材の精製の研究をした経験を活かして砂つくりのプロセスを検討していたが、いま振り返ってみると、研磨材の製造の考えがやはり役に立ったのである。未知の中に入り込むと、なかなかその出口が見つからないものである。
 研磨材の製造の考え方をヒントにし、砂時計の製造プロセスを詳細に検討した。特別な装置つくり、改良し、テストをつづけた。今までいくら実験しても成功しなかった小さな30分計の砂時計が、発想の転換であるとき急に一度で成功し始めたのである。このときの喜びは4年経った今でも忘れられない。「成功の芽が出てきた」とはこの気持ちであろうか。砂時計の実験の数を多くし、砂時計(時間)を段々と大きくした実験を行なったが、今まで通らなかった砂時計が、やる度に気持ちよく通過し始めたのである。どちらが前方かは判るはずのない真暗い長いトンネルの前方に、小さな一点の光を見たのである。それは研究者に小さな喜びを与える光なのである。「芽生え始めた成功の芽」が、次には「成功の確信」という自信に変わっていった。そのこころの動きは研究者の喜びである。

[できてしまえば、コロンブスの卵!]

 経験をしないと知識が増えていかない。人間の五感を使って実験を行なう。これが粉屋の基本である。第六感も必要である。だれもやったこともない研究はこの第六感が非常に重要な要因の一つである。「あそうかという閃き」である。頭の中では科学、数学、物理学、海洋学、医学、音楽、経営学、哲学的人生論などが、その手段として展開されるのであろう。すなわち、このためには「粉鼠」にならなければならないと同志社大学の三輪茂雄教授は云う10) 。東京理科大学の小石眞純教授は「観ること」だといい、粒子は倍率を変えて必ず4視野を撮って観察するように主張されている。何でも観たり触ったりして体験することが大切であることを言われてるのである。「できてしまえば、・・・」ということは、ここでは何をもって出来たというのか。砂時計は、まだ今でも流れている。さらにおなじように流れ続けるだろうが、何が原因でいつ止まるかもしれないのが、砂時計である。砂暦の砂時計がスタートしたとき、わたしは「わたしの実験が始まった」ということをいった。わたしの実験は、この砂時計が流れ続ける間が実験期間である。今までの基礎実験の正しさを証明してくれるのは、流れ続けるか、いままで実験要因以外の原因で閉塞するかである。砂時計は流れつづけることが実験である。私が死んでもなお実験はつづく。 ここまでくるには、掌にのるほどの小さな砂時計の基礎実験から1.2 m3 ほどの大きな容積の砂時計までにスケールアップするには、多くの要因の検討を行ない実験して来た。大半が無駄な実験であった。いわゆる「コロンブスの卵」のために、要らぬ実験をやってきたのである。一年計をセットした後は、この大きな砂時計は簡単に実験を行なうことはできい。ここまでの着実な実験方法が如何に重要であるかということは、私の研究の責務として常に考慮していたことである。

[成功と失敗と技術者の責任感]

 一年計の研究開発は、予算と納期が決められていた。このことはいずれの仕事も同じことであるが、研究畑を進んできたわたしは、今回の砂時計の仕事は町の仕事であり特に納期というのは今まで以上に厳しいものであると認識し、後がないという責任を感じていた。勿論、できないものはできないのであって、そう腹をくくっていればいいのであるが、失敗したならば、当然、関係者はそれなりの責任をとるであろう。お金はなんとか工面すればできるであろうが、時間を余分にもらうことは簡単にはできない。すべてが砂時計の進行に併せて進められており、遅れれば町の計画が大きく揺らぐことになることを考えると、最大の英知を出して研究しなければならないのはいうまでもない。しかし、それでもできないことはできない。できなかった場合は、私の技術もないことになる。これを弁解すべきなのか、失敗の報告書を提出すればそれで責任は終わりなのか。わたしは、「研究所での失敗はない」という精神でいつも研究しているが、その精神が今回の場合通用するのであろうか、いつも考えさせられた。研究している初期段は、責任ということは全く考えてはいなかった。それもこの研究は、少しずつではあるが、問題点が解決されていたからである。普通、研究が横道にそれることは度々ある。それは研究のためには絶対に必要なことであり、誰が駄目だといってもやらねばならない。今回の研究は、予定通り成功したので、このような問題は考える必要はないが、横道にそれた研究や直接関係のない設備の製造などが生じると、研究の遅れ(どの時点でその遅れを言うのかわからないが)の問題がとりだたされ、泥くさい問題がでてくる。「それはやらなくていいのではないか」、「お金の無駄ではないか」、「時間があるのか」、「研究の目的が外れているではないか」など、進行を妨げるような意見ばかりがでてくる。それらはわれわれに任せていない発言である。これはある意味では非常にいい意見である。わたしには最も安心して仕事ができる発言である。なぜなら「はい、それではどうすればいいですか、その通りやらせてもらいます。よろしく」である。われわれはその命令では失敗することは目に見えているのである。いろんなケースを考えた上での提案であり、やらなければ先には進めないのである。今回の砂時計は絶対にやらねばならなく後には引けないことであり、そこを考えたならば、われわれに任せてもらわなければならないのである。そこを理解しないなら、そこから失敗という道を進まねばならない。そこには我々技術屋は何も責任はない。
 責任をもってやることはそれぞれの段階でたくさんある。まかせられた研究における成功と失敗は何を持って判断するのか。成功とは、「基礎研究での結果が、実用的に応用された時、安定した運転がなされれば成功である」というのがわたしの持論である。ところが失敗の判断はむつかしい。「失敗は成功の母」これは正しい。しかし、いつまでも、失敗は成功の母とすると、いつまでも成功の芽はみえない。そこで息が切れてしまったら、これは失敗である。そうであろうか。やはり失敗の判断は難しい。その失敗の責任は誰が取るのか。技術に失敗はあるのか。


砂時計の放映で近況を友に

 世界一砂時計はやっと1月31日NHKテレビで放映された。それを見た親戚、友人からの感想が電話や手紙で寄せられた。テレビの影響は大きく小生の近況を即座に知らせることができた。残念なのは、何度も言うように九州、山梨、山形の放映がなかったことである。
 放映の後の反響は勇気つけられるこころ暖まるものばかりである。電話での祝福が沢山入って来た。最初に来た電話は、8時46分。一緒に研究をした王勇くん。中国からの研究生で、東京大学に留学していて1988年から勤めている。最初の大きな仕事が成功して彼も嬉しかったことが電話の声から十分に感じ取れた。彼の功績は大きい物がある。次に入ったのは8時48分。平塚に住んでいたときのお隣りの方。今は千葉の方に移られたが、御主人は写真が好きで、年賀状はご自身の作品を印刷したものである。奥さんは山野草などの趣味をお持ちの五十嵐さん「懐かしくテレビを見せて頂きました」と、懐かしお声であった。更に5分後には、昭和電工の出向先で研磨微粉の研究をさせてもらった名古屋研磨材工業(株)の元社長で上司であった瀬戸様からの電話で、「ま、大変なことをやったな。成功おめでとう、大変な苦労があったようだな。当時の君の研究の姿が懐古されたよ」と、言って下さった。「次の研究に励みまた元気な姿を見せてくれ」、とこれからの研究への夢を大きく開いてくださった。30分位した9時32分、坂口君から。彼は名古屋研磨材工業の微粉の製造で検査担を当しており、うるさい検査官といった彼である。その会社でのわたしの研磨微粉製造の研究は、砂時計の砂の10分の1以下の小さな研磨材に大きな粒子が絶対に混入しないような装置や製造プロセスの研究であり、砂時計以上に困難な苦しい研究であったことを思い出す。そこにはいつも、彼の現場担当の検査官としての厳しいチェックがあったが、厳しい規格に規定された微粉研磨材との付き合い方を教えてくれたものであると、彼に感謝している。そのようなわたしの経験が、今回の砂時計の砂をつくる上で非常に役に立ったとお礼をいった。「いや、いろいろ志波さんに分級の基礎技術的なことや粉体の基礎を教えてもらってありがたく思っているよ」と、彼も大変喜んでくれた。懐かしい話になった。
 いろいろな友人からの電話は良いものである。9時、仁摩の町長宅に電話を入れた。「町長、おかげさまで皆様の御期待に答えることができまして私も嬉しく思っております。いい仕事をさせて頂き、いろいろとありがとうございました」と。「技術的にも大変だったんですな。これで仁摩も有名になります。ごくろうさんでした」とねぎらって下さった。
 10時を過ぎた頃、昭和電工への同期入社の白岩くんから。「しわさんげんきですね。よくやりましたね。ぼくも皆に自慢できます」と言ってくれた。善き友である。「志波さん」でなく「しわさん」というようなニューアンスをもったおっとりとした人づきあいの柔らかい彼である。
 翌日、三重県のおばさんから電話が入った。久しぶりにテレビで会ったが、お父さんの若い頃の姿にそっくりだったねと、亡き父のことがでて胸が締め付けられた。父が見てくれたらどんなに喜んでくれたろうか。大学のとき博多で研究発表会があったが、大牟田から私の研究発表を会社を休んでまで、聴講に来てくれた程である。一本気の電気技術屋の父であった。
 さらに、肝付君から電話。彼は白岩君と同じく、昭和電工時代の同期入社の鹿児島出身で、独身寮生時代にはよく夜おそくまで人生論など議論した親友である。私の部屋は同じ階の階段を挟んで彼の部屋から5つ隣であったが、お互いに酒を飲み過ぎてダウン。彼の部屋で夜を寝明かしてしまったこともあった。「良い仕事をしたな。志波さん、いつまでも残る仕事ができて幸せだな。次を待ってるぜ」と親友らしい感想を述べてくれた。長友文子(旧姓、蓑島)さんから、「志波さんよかったよ。おめでとう。たいへんでしたね」と明るい声での祝福の電話は嬉しかった。次の日2月2日(日)には、昭和電工時代の同じく同期の矢多部くんから。彼は、富山工場に勤務していたが、今は昭和電工を辞め、自分でマンション経営をやっているという。「大きな仕事ができたではないか。羨ましいよ。だっていつまでも後世に残るし俺がやったと言えるし、いまごろそのような仕事はないぜ...。」屈託のない彼らしい感想である。
 藤沢に住んでいる女房のお伯母さんから電話が入った。「靖麿さん大変だったね。立派な仕事をしたんですね。成功おめどとうございます、一度見せていただきますわ」と。
 九州の母や自慢するのが好きであった兄から電話が来ることはなかった。たくさんの砂を残したまま、兄は弟の作った世界に一つしかない大きな砂時計の完成を知ることなしに母より先に急死してしまった。その砂のは、母の胸にさみしさと悔しさという形でばらまかれてしまった。九州では放映されず母たちが見れなかったのも残念であった。ビデオは撮っていたのだが、残念ながら実家にはなく、そのうちにビデオを買ってと思っていたが、遂に見てもらうことができなくなってしまったいま、そのことはこれからはいつまでも後悔として残こることになってしまった。母は父の元へ行ってしまったのである。これをどのように整理し心の中から取り去ることができるのであろうか。取れるはずがない。いや、寂しいけど取り去る理由はどこにもないし、それは取り去るべきことでない。いつまでも母と一緒に心の中で話あうことができることができる。この砂時計をつくらせてもらった意義がそこにあるようだ。母、兄そして父も一緒に交じえてわたしの心の中で砂時計のことを話しあうことができるではないか。
 友人から、さらにつぎのような感想が次々とポストに入って来た。
 1)ここ二三日の寒さでどうやら冬らしさを感じております。
 本日は御電話ありがとうございました。八時を待ち兼ねて拝見いたしました。こんな大仕事に参加されている志波さんにびっくり、三輪先生なる方がゼミの先生だったのでしょうか。砂精製担当者などと書かれている志波さん、イルイル。それは二十歳の頃の顔ではなかったのすが、カンロクの出来た志波さんを画面で見て、歳月を感じました。 とっても素晴しい番組でしたね。御年賀状にも砂時計を描いて下さっていましが、若しかして志波さんは砂時計の権威?。会社は粉体機器メーカー?なのでしょうか。いずれにしても二十五年も前、本当にうたかたの様な後縁だったのはいつまでも忘れずにこんな感動的な瞬間に参加させてやろうとお電話まで下さる志波さんの御人柄にあらためて考えさせられてしまいました。ありがとうございました。御電話を頂くかなくても観た番組だったかも知れませんが。志波さんが係わって居られるなどは解らなかったと思います。夢を持って生きる人間に御育てになられた御母様にもとっても感心しまいました。きっと素敵な家庭をお築きと御想像しております。何時までも御幸わせに御元気で。
皆様にもよろしく。まづはお礼まで。
             よしだ
志波様
 この手紙は、京都での学生時代の友人の下宿のおばさんである。学校にも近かったせいもあるが、お邪魔ばかりして美味しい京料理をお御馳走になった。いや、京料理を食べにいってたのが本心だったかもしれない。

 2)相変わらず寒い日でございますがお変わりなくお過ごしのことと存じ上げております。
早々に賀状を頂いた折に世界最大砂時計のことNHKテレビで夜八時から放映される予定と連絡を頂ましたが湾岸問題でニュース延長のため延期となり、心待ち致しておりましたが残念でした。連絡いただいてからもしかしたらゲストとして靖麿様のお姿がTVに移るかもしれないとそんな希望を抱いてりました。そしてまた次期に放映される日を楽しみにしておりましたら丁度22日か23日か定かでがざいませんが番組にのっており早速テレビに向かいましたが、この時も戦争が終わる様子もなく世界情勢は暗いニユースばかり。一日も早く戦いが静まる方向へそして世界が平和になるような記事でもと新聞を眺めていました処、1月30日朝日の朝刊に暗いニュースばかりの二面記事に、一箇所だけこの明るい三輪先生の研究された世界ではじめての砂時計がのっており知ることが出来ました。もうこれでTVの放送はされないかも知れないと思い、切り抜いてお送りした訳です。この先生は靖麿様の昭和電工の大先輩ですか。それとも大学の時の恩師ですか。とにかく砂質の努力は大変なことだったと思いました。
 靖麿様もこれからのお方です。益々ご活躍をお祈り致します。大牟田のお母様はお元気ですか。御高齢となられました由。お大事にお過ごし下しますようお伝え下さいませ。
乱筆ながら皆様へよろしく
志波様
                     市川幸子

 いつも優しいたよりをくださる。母にはいつも忘れずにこのように一言付け加えて下さる。しかし、いまはもう母はいない。

 3)お元気で御活躍の様子、三十一日のテレビで拝見、懐かしい眼鏡の顔、声、変わらない姿、真剣に取り組んでいる活躍の様子、羨ましく思いました。三輪先生の若さにもびっくりいたしました。ミワ、シワの美しき子弟関係も羨ましい限りです。永久に世に残り子々孫々に語り継ぐことのできる世界一の大事業の達成を心より祝福いたします。名研に居て下さった時の経験が役立っていればよろしいが...
 たゆみなき努力を重ねればどんなことも達成できるのだ!と教えられました。 テレビのワンショット毎に苦労話しを聞かせてほしい気持ちで一杯でした。神様がチャンスを与えて下さる折ができれば是非お話し聞かせて下さい。 私の娘も伊勢原市板戸に住んでいます。亭主はリコーの開発室です。これもいずれかチャンスがあればいろいろと教えてやってください
 あれもこれも書こうとペンをとりましたが、結局書きつくせません。取りあえずは、大成功のお祝いまで、今年一二月三十一日の様子、是非是非知りたくおもいます。
お身体を大切に、御家内安全に
 頑張って下さい。
                   乱筆御免
                   加藤八雄

 名古屋研磨材工業時代の総務部長であった。

 4)世界一の砂時計の完成おめでとうございます。
十二月に尚子姉さんからお話しを伺い、カレンダーに印をつけ、楽しみにテレビに写し出される日を待ちました。もちろんビデオに残して降ります。長い間の研究、大変でしたね。御苦労様でした。テレビの靖麿君を拝見していると、子供の頃大牟田で接した又蔵おじさんのお姿にダブ
リました。おじさんの嬉しそうな顔が目に浮かんできました。
おひまな折には我が家へもどうぞお出掛け下さい。  御身御自愛のほど
 槙瀬敏子姉。佐賀のいとこ


 5)一月三十一日放映の「世界一大砂時計」大変感動しました。一度
お会いして苦労話を是非聴きたいものです。

 佐藤正美。現在小平市。いつもいろいろ面倒をみてくださる先輩。

 6)前略
 待望のテレビ番組を胸を踊らせながら拝見致しました。見終わって主人と二人で「志波さん幸福そうね。こんな素晴しい夢のあるプロジェクトに参加されてそれを成功させて素敵な人生の思い出ができてうらやましい!!」と感激し合いました。今年は機会を作って志波さんの作られた大砂時計を島根迄見学に行ってみたいと存じて居ります。又是非お目にかかり、心豊かな界に誘われるお話しを伺えましたら大変嬉しく存じます。
益々のご活躍と健康をお祈り致しております。寒さ厳しき折どうぞお身い大切に
              草々
追伸 テレビでもとても優しくダンディに写っておられました。

 阿部修くんの奥さんより。彼が名古屋研磨材の営業だったときの友達。いまは昭和電工に務めている。営業マン。

 7)寒いと思っているのに、今年も暖冬と言われています。お元気ですか。一月三十一日待ちに待ってテレビを見ました。貴方や谷本君の活躍ぶり大変でしたね。三輪先生はいいスタッフに支えられているなと思いました。20年前とそう変わらない姿にほっと致しました。私も同志社を離れて20年になるんです。今更ながらびっくり。呉々もお体を大切に。
 吉田富貴子さん。同志社学生時代のゼミの助手


 8)寒さ厳しい今日このごろですがお元気で活躍されていくことと思ひます。賀状で知らせて頂いた砂時計の件で一月十日に期待して待っていましたが放送がなくがっかりしていました。夕べ八時から四十五分間あり、志波さんの元気で張り切っている姿を見て十五年前の研究所時代を思ひ出しました。長期間にわたる砂捜しと実験で大変に御苦労が有ったと思ひますが、それが実り成功して皆さん共々に喜ぶ姿が目に浮かびます。砂の消費量に付いても実験中とか。此からも元気で頑張ってください。放送中に三輪さんが出ましたが塩尻のモランダムに居りました方ですか。二十代の頃を見ており大分面影が変わっていましたが?
 宮澤壽美さん。昭和電工時代の溶業研究所で微粉研磨材の分級の研究を一緒にやったときの方。夕食によく招いて頂き公私共々お世話になった。帰りには必ず自前の珍しい漬物、いわゆる信州漬物や果物をおみやげに、奥さん共々、自転車にたくさんつけてくださった。

 9)大砂時計の完成おめでとうございます。昨日(1/31)お手紙出してから帰りの電車の中で新聞を見て「平成三年列島にっぽん」と題した番組が目につき今晩放送されることを知り、家に帰って夕飯の支度もそこそこにしてTVにむかいました。何十年振りでテレビを通してお目にかかったことになつかしくなりますが、もうそれはそれは御立派になられすばらしいスタッフとの研究に見入っておりました。ガラスのカプセルですかオリフィス作りの細いところ大変な苦労して、又琴ケ浜の砂からスタートしてそれぞれの浜の砂の見分け方等々並々ならぬご研究が身を結んだことですね。五年間の歳月完成は感無量でしたと思います。日本の大きな歴史となって末代まで残る大きな対作に感激いたしました。島根県仁摩町に建設された砂の博物館一度実物を見たいものです。これからも益々のご研究発表を期待します。お元気でご活躍下さいませ。
 市川幸子さん。先にもきたが、相当に感激されたのであろう、また丁寧なお手紙がきた。

さらに、
 NHK TV列島にっぽん特集
世界一・砂時計誕生〜島根・鳴き砂の浜〜

 本題でのテレビビデオを桜美林短期大学生に見せてその感想文を書いてもらったというレポートを1991年3月三輪先生から入手出来た。以下のようである。その全文を記載させてもらった。一つの目標に進むには、単に邁進するのではなく、仕事にロマンを持ち、皆との協調の必要性、
熱意と努力、さらに創造の喜びを持って取り組むことが大切であることを教えられたというような感想である。自然保護の大切さを感じた学生さんもいる。いずれの方も、仁摩町の発展を願っての執筆である。

1)私達の日常生活の中で砂時計というものはほとんど見られなくなっていると思います。ちょっと古典的すぎる(!?)と思っている人が多いからだと思います。
今の世の中、デジタルで3分間測ると残り何秒かもわかるほど正確です。けれど砂時計ではそれが判らない。これは不便な時が多いと思います。しかし、デジタル時計にはない神秘的なものがある。人をドキドキさせるものが砂時計にはあるということに気付きました。同じようなことを町長さんもおっしゃってました。忘れかけられていたものをほりおこし、町の発展のために用いるいろいろな点においての第一歩だと思います。砂時計の砂が落ちていくと同時に、仁摩町も発展していくことでしょう。
            龍川美絵子(リュウカワ ミエコ)

2)仁摩町という町は聞いたことがありませんでした。まして大砂時計の計画も知りませんでした。砂時計とは私達の身近にあって、あまり興味をさそうものでもありませんでした。でも、砂にこれほどのロマンがあることを知って、大変ショックを受けました。大砂時計を作るにあたって、まわりの人々の非常にたくさんな努力がありました。ひとつのものを作ることは、これほど大がかりでみんなで協力し合うことなしにはできないことを知りました。砂を選ぶにあたって、全国を歩きまわった三輪教授、ガラスを作るドイツ職人、砂を実験する人たち、砂をふるいわける人たち、ガラスを洗う人たち、そして町の人たちの協力。あらゆる人々が加わり、そしてみんなの力で成功させたときは、どんなに大きな感動が生まれたことでしょうか。私も、最後の組み立ての段階や、ガラスに砂を入れる作業なんてゴミが入ったりしないだろうか、とかハラハラしました。そして大みそかの日に砂時計が回転し、砂が落ちはじめたときなんて、息のつまる思いがしました。とても感動しました。これからも仁摩町の大砂時計は流れ続けて、砂が流れて時を刻むように、私たちも時の大切さを認識してゆきたいと思います。
                   小林陽子(コバヤシ ヨウコ)

3)鳴き砂の浜とあったので、てっきりその砂が使われると思っていました。なのに思っていたより砂の粒が大きいことに驚くばかりでした。そして本番で使われた砂がとても奇麗だったことが忘れられません。単に砂時計といってもとても難しいもので、一番肝心な孔が100個作られたということは1個しか使わないのにすごいとしか思えませんでした。それほどまでに正確性が必要とされなければ一年間もの時を刻む砂時計はできないものかもしれません。でも、今年(1991年)の12月31日に全ての砂が落ちきらなければ、失敗ということになります。これほどまでにたくさんの人の手が通った砂時計なのでぜひとも落ちる瞬間が見たいものです。今まで誰もやったことがないことをするというのは、とても大変だということがわかりました。けれどもそれだけ夢がかなった時というのはうれしさのたとえようがないのでは?と思います。何か一つのことに向かって様々な人が最高の技術を要して作りあげるということはとてもすばらしく感動しました。この砂時計によってこの仁摩町がもっと有名になればいいなと思っています。           内山亜子(ウチヤマ アコ)

  あけましておめでとうございます
お年賀頂きありがとうございます。もう一年が経とうといているなんて、すごく早い気がします。一年が過ぎようとしているということは、砂時計が完成まじかということですね。絶対に成功することを信じています。
最後の一粒を私達の代わりに見届けて下さい。

   仁摩元年が終わろうとする1991年、仁摩に出発する12月24日のまじかに年賀を書いた。その返事がきた。

4)とても感動しました。年末のカウントダウンが始まった時、とても胸が高まり、身震いしました。一つの夢がかなった時の人々の顔を見た時、あんなにも喜びが満ちあふれていて、とても素晴しいと思いました。皆が全力で協力して、一つのことを、成し遂げた時の感動は、何に変えることも出来ないと思いました。私もひとつの夢に向かって、歩んでいけるような仕事につきたいと思いました。砂時計ひとつで、こんなドラマが生まれるとは思いもしませんでした。しかし本当に夢がかなうのは、今年の12月31日にならないと判らないことですが祈りたい気分です。
                    陸田礼子(リクタ レイコ)

5)世界最大の砂時計を作るのに、砂を選び、精製して、砂時計に使う。ガラス容器の設計・発注、そして製作。5年ががかりで作りあげるのにスタッフ全員の協力と一つのことに打ち込む人達の姿がとても印象的でした。砂時計が完成し、108人の町民の手によって砂時計が回転し、新年の時を刻みはじめたのを面々から通して見ていた私でもその場にいた人達の感動がそのまま伝わってきました。
 砂時計というと、なんのことはないと思っていましたけど、私の考えが全てくつがえされ、砂が時を刻むのはなんて神秘的でロマンチックなんだろうと思わず声を無くしました。そして完成した砂時計を見て、人の力というのは一人ではわずかなことしかできませんけれど、この世界最大の砂時計を作ろうと考えた町長さんのアイデア、スタッフ全員の協力は、何ものにも変えがたいものだと思いました。
           小林展子(コバヤシ ノリコ)

6)本当に素晴しい思いがしました。一つの砂時計を始点とし、人々のふれあいがとてもあたたかく、砂時計の砂をみつめる目がとても輝いていました。一つのものを作り出すということはたいへんなことだけれども、素敵だと思います。科学技術がたいへん発達している現代ですが、人間の手で造りだすことはとても”感動”です。言葉であらわすのはとても難しいのですが、私の心の中には、はっきりと感動が残っています。人間って本当に素晴しい。心がとても熱くなりました。あの人々の手によって時を刻みはじめた砂時計がずっとずっと平和に時を刻み続けることを祈ります。
           伊藤直子(イトウ ナオコ)

7)前代未聞のことをするのは、とても困難なことであると思いました。世界一大きい砂時計を完成させるために、五年もの歳月をかけた仁摩町民、大学教授、ガラス職人の方達の努力はたいへんなものだと思います。砂時計に入れる砂を選ぶにも、日本各地の砂を研究し、最も適した砂を
探し出すことに”世界一の砂時計を作る”という並々ならぬ熱情を感じました。そして今まで他人同志だった人々が同じ目標に向かって努力する姿はすばらしいものであると改めて感じました。今年、世界一の砂時計ができたのと同時に、町の人々のきずなも強まっていくのが手にとるようにわかりました。
           野左根 幸代(ヨザネ ユキヨ)

8)まずこのVTRを見て、一番感じたことは一つのものをつくりあげるには、沢山の人がかかわっており時間や条件にあうものを探しだすのにこんな苦労が必要であるということです。そしてそれを達成させるためには、みんなが簡単には妥協せず、自分ができる限りの努力をしていたことに心を打たれました。一年という単位の砂時計をつくるということを耳にすると、単にすごいなーと思いますが、実際その経過を目にしてみると人間の夢がたくされた印象のようなものを見るようでとても感動しました。このようなすばらしい夢をもつ人々がいる町から人(若者)が離れていってしまうのはなんだかとても悲しいことのように思われました。
           田口裕季子(タグチ ユキコ)

 A HAPPY NEW YEAR
年賀状ありがとうございました。御社のVIDEOを拝見したときから一年近くも過ぎてしまったのかと思うと、本当に時は全ての人に平等にあたえられているのにもかかわらず年を重ねるに連れて早く感じられることが不思議に思えてなりません。でも仁摩町の一年砂時計はいつも正確に時を刻み続けていることと思います。機会があったら是非拝見させていただきたいと思っています。
                 1992.1.

9)砂が流れる映像がとてもきれいで驚きました。島根県の砂で時計を作ることができなかったけれど、5年もかけて実現できたこと、すばらしいと思います。町は過疎化と老人化が進んでいるということでしたが、海が近くて、砂もきれいで、町の建物も昔ながらの感じがあって、私はそのほうがとてもおちついて暮らせる場所ではないかと感じます。東京にいては味あうことのできない自然があると思います。ひとりの人の提案を元に、それを日本の工場や外国の会社までもが関係してひとつの物を造りあげていく、しかも世界一という大きさで、私には想像もつきませんが、夢を実現させていく、出きあがった時の感動を、実際にかかわったわけではないのに感じてしましました。それほどまでに大きな夢だったのでしょう。お金もかかったことと思いますが、けれども、実際に見たら圧倒されてしまうような、そして、その大きさで人の心をおちつけてくれるようなそのような物だったら、私はいいのではないかと思います。私達がこうしている今もあの砂は流れている。そう思うととても不思議な感じがします。機会があったら一度是非見に行ってみたいです。
              塩野裕美
 あけましておめでとうございます。
 年賀状ありがとうございました。今年から私も社会人です。砂時計のようにマイペースに。けれども一歩一歩確実に過ごしていきたいと思います。一度、島根の砂時計を見に行きたいと思います。
体に気をつけてお仕事にがんばって下さい。
              塩野裕美

10)砂時計を作る方々の執念とロマンを強く感じました。それと同時に、砂がどれだけ繊細かということもわかりました。砂の大きさが0.15mm以下でなくてはいけないし、微量のほこりや虫の死骸が入っても、周りの気温の変化でも孔がつまる原因になります。
 町の高齢化、過疎のため、「何もないところだ」と言わせないよう「ここにもこんなに素敵な、誇れるものがある」という立ち上がりが、とても素晴しいと思います。しかも若い人ではなく年の方が(とは言っては失礼ですが)それから燃やすものを見つけたなんていうのは暇をもて余しいる人と違い、生きがいの一つになるでしょう。それから、一年に一回町の方々が時計を動かす為に団結るる。それは、あの砂時計を使ったねらいのうちに入るかわかりませんが、町の方々の嬉しそうな顔が印象的でした。このテレビを見せて頂いて、自然を相手にした仕事をするって良いなあと感じました。
              海老野実香(エビノ ミカ)

11)砂時計という、時を刻んでいくものに、ロマンを求め、夢をたくしている人々の目がとても美しいのがとても印象的でした。
 仁摩町を盛り上げるという目的や夢が、あの砂時計には含まれているとは思わずにはいられません。砂を選ぶにも、時間と神経が、そして根気がいります。そして、選ばれたのが山形県の何と海ではなく山の地層からというのが、とても意外な感じでした。それも地層というからには、何百年、何千年も以前から、じっとその時をまっていた世界一大きな一つのこの世の中でたったひとつの砂時計とあったのです。私達は、現在、時に追われた生活をしています。時というものがわからなくなった時、それは時間というものを粗雑に扱っている証拠です。しかし、あの砂時計はその一刻一刻を私達に教えてくれます。目に見える時間は何とロマンチックなものでしょう。様々な人々の夢とロマンを受けとめながら、永遠に止まることなく時を知らせてほしいと心から願いました。
              宇野瑞夏(ウノ ミズカ)

 始めまして。その節は心暖まる御年賀をありがとうございました。この様に御返事遅くなりましたこと、お詫びいたします。一年前、テレビで皆様が砂時計という時を刻むものに、一つとなって熱情を注いでいらっしゃったお姿をなつかしく思い出しました。いただいた砂時計は今でも私の心を落ち着かせてくれる愛用品です。早いもので今年から私も社会人になります。皆様のように熱情をもって仕事に取り組めたらと思っております。けっして時に追われず、時を感じながら、充実した
日々を過ごせたらと思います。それではどうぞお体を大切にお仕事にがんばってください。いつか必ず島根に伺わせていただきます。
              宇野瑞夏

12)1年の砂時計は大勢の人の手でつくりあげられ、12月31日、市民の人達が108人力を合わせて砂時計を回し、1月1日に砂が落ち始めた瞬間のスタッフの笑顔特に教授の顔がとてもすてきでした。
作っているときのスタッフの真剣な目と目的をもって仕事をしている姿がとても印象的でした。
砂時計をつくのにもあんなに厳しい顔で夢のために仕事ができることはいいことだなと思いました。世界一と言われる砂時計を見たくなりました。1月1日に砂が落ちるのをテレビでみていたのに手に汗をかいてしまうほど私も緊張しました。
              高杉理佳(カスギ リカ)

13)砂時計といえば普通、3分とか5分のものを想像しますが、今日見た1年というのは、ギネスブックにのるくらいのもだから、どれだけずごい技術で作られたのだろうと思いましたが、思ったより、素朴な方法で作っていたので意外な感じがしました。でも琴が浜の砂で作れれば言うことなしだったのにとても残念に思いました。私は今まで、鳴き砂というものを見たことがありませんでしたが、今日のテレビを見て、自然というのは何て不思議なものをつくるのだろうと感じました。鳴き砂は自然が作った宝なのでこれからも、きれいなまま残ってほしいと思います。実際にこの目で見たいと思っています。
              辻 順子(ツジ ジュンコ)

14)仁摩町町長の出した大砂時計の案は、始めのうちはたかが砂時計が大きくなっただけと思っていましたが、だんだんとそれは単純な事ではなくむしろ無謀な事だと思えてきました。島根県仁摩町の琴が浜の砂が使えず、福島県の勿来(ナコソ )の砂も適さないということがわかった時は計画がゆきづまってしまったと思います。でも最後に山形県の山の遅谷の砂を発見でき本当に良かったと思います。色々な条件を満たすためにはみんなで頑張り、5年もかかってしまいました。それだけ労力と時間を使った分、出き上がった時の喜びは大きかったと思います。この感動は私にどんなにか難しい事でも努力すればむくわれるという事を教えてくれたように思います。この砂時計の誕生を見て本当に良かったと思います。   
               新名百合子(ニイナ ユリコ)

 年賀状ありがとうございます。砂時計も早や一年たったのですね。今年の一年も人々の心に残る一年を刻むよう願っています。
            1992年1月

15)今、私達の周りで自然のものが少しずつ失われています。そういう時代に、世界一大きい砂時計が完成したことは、すばらしいことでしょう。やはり自然のものは大切にしなければならないと思います。
 作るまでの過程には本当に大変だということが伝わってきました。多くの人々が、一つのものを作りあげていく、協力してがんばっている。そういうことがとても良く見えました。完成した時のうれしさ、喜びはとても大きなものだと思います。みんなで一つのものをつくりあげていくということは私自身も好きです。だからとても良かったです。本当は、こんな言葉では現わすことのできないことだと思います。この砂時計が1年を無事に過ぎることを祈ります。そして作った人々の目的が達成できたらすばらしいことだと思います。目的の1つであるが、自然の大切さ、偉大さを教わったような気がします。
               後藤 静(ゴトウ シズカ)

16)平和の象徴のような話だと思います。他人が1年計なんて何に使うんだとか、何月何日が判らんなどと言おうともそれでいいんです(前TVのNewsでこのことが話題になった時、そんなことを言ってたアナウンサーがいたんです)こういう物にこそロマンがあり情熱をそそぐのにふさわしい物なんです。1年で砂がきっかりなくならなくたってここまできた5年がすばらしいのです。 自分たちの砂を使ってなくなたって、このような計算をして実行し、最後までやりとげたことにロマンを感じずにはいられません。いろいろな人達の協力のもと完成させた砂時計はロマンの結晶です。自然保護をそのような形でうったえることができるのかと感動しました。もっと地球のことを考えなければならないのに戦争で人間以外の動物も苦しんで地球の自然がこわされていることを再確認しました。ふるってこまかい美しい砂をみて、自然に対してもっとみんなが積極的に守っていこうと思うようになればこの砂時計は成功なのではないでしょうか。 
                        吉野朝子(ヨシノ アサコ)

砂時計の疑問


(1)同じ砂で、孔の大きさが2倍になったら、砂の出る量はどうなるのかな?
 ・孔を流れる粉体の流出速度は、「オリフィス径の2.5 乗則」という経験則があります。したがて、約6倍になります。たとえば下の表のようになります。

孔倍率
1
2
3
4
10
量倍率
1
6
16
32
316

 実験では、この2.5乗は、2.5から2.7の範囲の粉が多い。

(2)孔の大きさが同じで、砂の大きさが変わったらどうなりすか?
 1)砂が小さくなると、出る量少なくなります。
 2)砂が大きくなると、出る量は多くなります。
   しかし、いずれの場合も、極端に少なくなったり多くなったりするとはありません。
  ・砂と孔の大きさの割合が6倍(孔/砂)以下になると詰まりが生じます。経験則です。
  ・小さな砂でも、さらさらしていると流れます。どこまで小さくなっても流れるかはテストしてみなけれれば判らないのが現状です。わたしの研究では現在、ガラスビーズですが、0.125mm の小さな孔で微小な振動を与えながらではあるが、1時間に0.65grを達成しています。
(3時間で実験ストップ)これを用いた砂時計は、一年で5.694kg というとてつもない小さな一年計ができることになります。100 年計としたら、約570kg です。いかかですか、どなたか作りませんか。
  ・砂暦の孔径は0.84mmφ、砂は110 μm(74〜125 μmの間の砂の大きさで、髪の毛の直径程度です)。

(3)砂時計は、外の環境の温度が低いと速く流れるという実験結果があり、おもしろい性質を持っています。理由はまだわかりません。

(4)砂時計の上下の容器の温度差が急激に起こると、流れが乱れます。
砂時計の中の空気の膨張、収縮のために、孔(ノズル)の部分で空気が出入りするからです。孔を通過している砂はこの出入るする空気によって戻されたり押し出されたりするのです。寒暖計のアルコールが気温の上下につれて上下に変化するように、砂時計の場合は空気の運動は目に見えませんが、それと同じような現象が起こっているのです。孔を流れている砂をよく観察するとそのことが理解できます。

(5)静電気が発生すると、そのときは全く流れなくなります。粒子が静電気によりノズルやガラス面に付着するためです。しばらくするると、電気が逃げてしまうために流れ始めます。

(6)砂はなぜ同じ速さで落ちるのでしょうか。
   ガラス容器の下のほうにある砂は、ずっと上にある砂からの圧力を支える性質を持っています。その圧力は最終的にはガラス容器の壁で支えられています。したがって、いま落ちている砂は、オリフィスのずっと上の砂の圧力を受ける事なく、自然の落下で落ちることができる
ために同じになるのです。

(7)月の世界では、落ちる速度は地球の6倍遅くなります。
   この一年計は,6年計になります。ホントかな?

(8)宇宙空間、無重力では流れません。砂は、容器内で飛び回っているでしょう。ね、向井さん。

(9)砂時計でなぜ今の時間がわからないの?
    時間とは、何なのでしょうか。今の時間とは何なのでしょうか。
あなたが、今そこに居るから、存在しているから『時』という『物』が動いているのではないでしょうか。となると、砂時計の砂が流れている今が、質問したその時が、あなたの時間なのではないでしょうか。したがって砂時計ではそのような時間が判ると、私は考えます。そのような時間は、砂の流れと共に消え去って行きます。砂時計では、無常にもその過ぎ去った時間を砂一粒一粒に見せてくれています。一粒の砂にあなたは何を思い、そして美しい時間を与えて挙げたでしょうか。今の時間、時刻を知りたいならば、あなたの素敵な腕に輝いているデジタルの腕時計を見てみて下さい。正確に知ることができますよ。しかし、きっとその瞬間に『悪魔の時間』に追われるでしょう。

(10)一年計の砂時計は、中が汚れてきませんか。
   汚れてきます。自然の砂を使用ていますから、砂の表面には粘土質の小さな粒かたくさん付着しています。頑固に付着していますからよく洗う必要がありますが、あまり洗い過ぎると表面の摩擦係数が大きくなってきて滑りが悪くなってきます。これでは、小さな孔から流れ難くなってきなすから、完全には洗えないのです。となると、次第に粘土がほこりとして出てくるのです。

(11)砂は摩耗しませんか。
   砂時計からの静かな流れでは、皆さんのお子さんの頃になっても大丈夫でしょう。あなたの庭先の踏石が減ったら、砂時計の砂の摩耗を心配して、私の家に電話して下さい( TEL0463-93-1956)。杖をついて、玄孫に手を引かれて仁摩町へ出かけましょう。

(12)では、孔の部分はどうですか、摩耗しませんか。
   ひょっとしたら摩耗するかもしれません。ここは常に砂がぶつかっていますから。

(13)砂時計の時間精度はどの程度ですか。
 十四世紀の分胴時計はかなり正確さに欠けていた。しばしば一日に一時間以上も狂いが生じ、まともに作動することすらなかったので、つねに水時計なり砂時計なりで時刻を補正する必要があった、とある。1988年仙台グリーンフェアーで80日計砂時計の砂の製作担当された砂時計メーカー、金子硝子工芸の金子実さんは、1分計で1秒以内に作っているとおっしゃっています。

(14)砂時計を傾けたら時間はどう変わりますか。
   テスト結果では、大きく変化しませんでした。データの数が少ないので今後のテストを待ちましょう。

(15)砂の形はどのような形ですか。
   非常に丸みを帯びた粒です。これは自然の砂で昔は海だったところの砂で、波の運動で何億年もの洗浄がなされているといわれています。鳴り砂になった砂です。しかし、このままでは鳴りません。

(16)砂時計の容器はどのうにして作ったのですか。
   これは日本で作れなく、ドイツ製です。大きな円筒ガラスを火で焙りながらゆっくり溶かして、ロートの様な型を作って行ったそうです。ドイツの技術で、作り方は秘密になっています。ドイツ職人の技術の結晶です。

(17)では、孔の部分はどのようにして作るのですか。
   これは、日本製で長年の蓄積された職人さんの技術です。一本一本手で根気よく作っていきます。NHK テレビで見ることができます。
(1991.1.31.放映されました)

(18)どうやって、あの砂は入れたのですか。
   ここに持ってくる前に、砂は、工場で大きな砂や他の汚い物が除かれ、奇麗に水洗いを行ない、乾燥後、何度も何度も網を通しました。
現地での投入に際しては、再度、網を通し、少しづつ入れました。初めての15メートルの高い処で、しかも足場の悪いところでの作業であり、なれないわたしには始めは恐々の元での砂投入でした。一週間かかりました。

(19)砂時計の中の湿気は、大丈夫ですか。
   過度の湿気は、御心配のように砂時計には大敵です。空気は少しずつ容器の中に入りますが、乾燥剤を通ってきますから大丈夫です。乾燥剤は、定期的に交換します。しかし、あまり乾燥すると、静電気のいたずらが始まります。

(20)あの砂の数が、6,400億粒であると、どのようにして判るのです
か。
    ある程度大きな砂つぶなら、単純にある数の重さを精密に計り、1トンの砂に陥換算すれば良いでしょうが、この様に小さな砂になると大変です。網で砂の粒度分布というものをもとめ、難しい計算で求めます。ふるい網で求めるということは、おもしろいですよね。
    湾岸戦争での日本への援助養成は、90億$=1 兆2000億円。砂時計の砂一粒1.8 円で砂を買ってくれということになる。

(21)砂の成分は、何ですか。
    主成分は、二酸化けい素(石英、SiO2)です。自然の砂ですから、そのほかに、アルミナ
  (Al2O3 )、鉄分(二酸化鉄、Fe2O3 )カルシュ−ム分(CaO )、マグネシューム(MgO )などが含まれています。表−2に島根県の代表的な海岸砂浜の化学成分を示しました。

  表−2.島根県の代表海岸砂の成分−仁摩町誌より−

産地
SiO2
Al2O3
Fe2O3
CaO
MgO
灼熱減量
浜山砂山(出雲市)
84.96
7.11
1.74
0.76
0.54
1.72
琴ヶ浜(仁摩町)
88.60
6.54
0.96
1.16
0.35
1.50
波来浜(江津市)
81.26
0.63
1.66
1.08
0.70
1.72
半田浜(江津市)
78.08
2.78
2.42
1.57
0.74
1.42
緑ケ丘(益田市)
86.54
8.16
1.74
0.56
0.58
1.76

      SiO2は、硬くて耐火性が強い物質です。

(22)砂の比重(密度)は、どれ位ですか。
   2.63〜2.65程度です。水の密度は、ほぼ1.0 です。

(23)砂時計の硝子は、ガラスの内で最も硬いもので、「硼珪酸ガラス」といわれる物です。
    ガラスには、二酸化ケイ素のみからできているガラスで、プリズム、レンズなどに使用されている硅酸ガラス、窓ガラスや瓶などに用いられているソーダ石灰ガラス、クリスタルガラスや色ガラス様としてのカリ石灰ガラスそして砂時計に用いられた硼珪酸ガラスなどがあります。その他鉛ガラス、硅酸アルカリガラスなどがあります。ここに用いた硼珪酸硝子は耐熱性のよいガラスで、料理の時に使ったりコヒー沸かしの時に使うガラスポットなど、身じかに使われているガラスです。
  このガラスの線膨張係数は32〜33×10-7です。比重は2.23。
    この種の硝子は、一般にパイレックスガラス(アメリカ・コーニング社)やデュラン(西ドイツ・オットー・ショット社)、ハリオ(日本・柴田科学)など呼ばれています。

(24)砂時計は最近、よくテレビ等で見かけます。
 1)ハウスカレーの宣伝。
 2)トーレの宣伝。
 3)1991.1.26TBSテレビ クイズダービー
   ****怠け者の夫が死んで火葬が終わり、火葬場のおんぼさんが、「壷はどれにしますか」と尋ねた。するとその妻は、「いりません。せいぜいこれから働いてもらうために□□□にして家に置いておきます」
と答えた。  □□□=砂時計、です。
 4)オズの魔法使い
 5)1991.3.1.金曜洋画劇場
   「刑事コロンボ・魔術師の幻想」
   で、手品の9 分20秒間に砂時計を動かしている。50cm程の大きさで、10分。
 6)1991.1.2. 九州にて
   新仙年香−孔漢堂−の宣伝。
 7)1991.5.NHKテレビ:教育3チャンネルニュース解説委員。 
 8)NHK清水キャスターのデスクの上(政治部)
 9)読売新聞、1991.9.16.ソ連の砂時計の諷刺絵
 10)読売新聞、1991.11.10、ウルグアイ・ランドの諷刺絵。時間がない、倒しますか 大下健一
 11)いかりや長介さんの砂時計収集趣味,1992
 12)ドラゴンボールZ:1992.9., 富士テレビ
 13)NHKテレビ21時30分クローズアップ現代での、後ろの棚の上。1992年
 14)NHKテレビ、マジックショーで、砂時計の蜂の腰に指輪を通す!。1992.12.4.
 15)かながわガボロジー展のシンボルマークとして、[GARBOLOGY FORUM 1992どう減らす。どう活かす。]砂時計の上壷にいろんな廃棄物を入れ、小さな孔からは奇麗になった砂が流れ落ちている。この砂が有効に活かされていく様子を砂時計で表現しているのでしょう 1992.12.11.朝日新聞
 16)フジテレビ「ちびまるこちゃん」、歯みがきの宣伝に砂時計がつ
いているよ。1993.1.8.

25)時間とは何ですか。
 1)時間とは、前−後の関係を一般化してすべての事象に拡張したものである。P.J.ズワルト。
 2)時間を計測するもっとも簡単な方法は、イチ、ニ、サン・・・とただ数えることである。この時間の測定の方法は、当然、規則正しく数えねばならないが、われわれの規則性の感覚と非常に密接に結びついている。数えられる事象は、声そのものといえる。言い換えると、そのように数える場合、数えの回数の数が数えられることである。おそらく、数えることは時間の比較的小さな区域を測るのに最も原初的な方法である。
 3)時間は一つしかないが、時計は沢山ある。
 4)時間の本質は運動である。
   太陽の位置は一日の時刻を決め、太陽の辿った工程は持続時間を決める。
 5)時間とは、『制限』である。−−−ある小学生の言葉。
 6)時間とは、『判らないもの』である。−−ある中学生の言葉。
 7)時間とは、『戻せないものだ』−−−ある小学生の発言。
 8)時間とは、『記憶の中で、時はあるときは早く、あるときは遅く、ときには止まっているかのようによどんで、流れる。つい昨日のことのように思い出されることもあれば、遠い昔となっていることもある。(山梨日日新聞、1991.8.15.)』というものである。
 9)100 人いれば100 の時間がある。
 10)『暮れかかるむなしき空の秋をみて、覚えずたまる袖の露かな』新古今和歌集。のんびりとした静寂な時の流れであり、本人の時は止まっているかのようである。
 11)時間は、わたしたちが耕し、わたしたちがそこで亨受し、活動する畑である。時間は、わたしたちに喜びをあたえてくれるのと同時に、その喜びを抹殺するものである。すなわち、過ぎ去りつつ地上の事物や努。のすべてを破壊するからである。 −エルンスト・ユンガー−
 12)総べての時間帯は過去現在未来の果てなき三世の中にあり、そこから「切り取る」ということが無意味そうである。それは一粒の砂といえども無限の空間から切り取るというのと同じである。 大森荘蔵 『流れのよどみ』より

(26)砂時計とは、時の流れを教えるものだ−−−ある小学生。

(27)最も短い時間は、最も短い距離が素粒子で10-15m、最も速いのが光。したがって、その距離を光速3 ×108m/sで割った値が最小時間となる。t=10-24sec=1 [クロノン]しかし、これは量子力学から、実際は10-15mや3 ×108m/sなどが存在しない。実際の値は、約10-15 メートル以下の距離は存在しないし約10-22 秒以下の時間は存在しない。すな
わち、これら以下の距離や時間区間がこれ以上分割できないことを意味
する。

(28)時間は流れるとよくいうが・・・
   どんなに遠い未来でも、今の時間が流れているのと同じに流れるはずである。またどんなに隔たっていようと、過去においても同じように流れて来た。さらに、時間のどこをとっても、どこがどこより重要だというようなことはない。時間の流れは、祝日だとか、記念日というようなものを反映してはいない。空間はまた等方的。どの方向が他の方向に比べていいとか悪いとかいうようなことはない。これにたいして、時間は、「今」というそこだけが知覚できるところを通り、過去から未来へと向いた矢印を持っている。過去と未来の基本的な違いは、未来に対しては影響をおよぼしうるが、過去に対してはそれができないということである。

(29)時間は、動的(無限)であり、空間は、静的(膨大)である。
 皆さんも時間につい考えてみましょう。お手紙ください。仁摩サンドミュージアムでも良いですし、わたしの家でもいいですよ。小学生、中学生、お父さんお母さん、・・・・お坊さん、いろんなお方の考え方をお聞きしたいですね。時間についてもっと知りたい。そして皆で語りあうときができれば、と思っています。砂時計の使われ方がどのようなところにあるかも教えて頂ければ、またまとめていきたいと思っています。

   砂時計とこころ


 砂時計と接していると、砂時計の空間や時間の流れ、動き方、時間の方向や大きさ、時間の不思議、心の動きなどが面白い。

ゆとり

 砂時計を静かに凝(み)ていると、何処からとなく、ふくよかな優しい心みたいなものが飛び込んでくるようです。何気なく、デスクの片隅に、次の時間を創ってくれよ、とせがむようなことをいうことなしに静かに待っているのは、愛らしささえ覚えてくるものです。春の曙の光輝く太陽のように、美しく研きあげられた輝くグラスの中では、砂は、その人自身の時間とは無関係に、自分の美しい砂の流れと音のメロディーに酔いしれながら、創ってもらった時間を、精一杯、砂の時間として素晴しい過去の時間に溶け込んで行っています。砂は、素晴しい流れくる時、その時を待っている時間を有している。その時は、自分勝手な仕草で、過去の時間には溶け込むことはできず、自然のなすがままに終わらねばならないのは、何と刹那にさらされた時間なのでしょうか。しかし、刹那な時間を素敵に魅了してくれているのが、ふくよかな温かい砂時計なのである。  1991.2. y.s.

後悔

 砂時計の時間は、自分の人生を振り返っている時間である。人生は、年をとると、一日が短いとか、あっという間に時間が過ぎ去ってしまった、などとよく口にする。砂時計の砂が半分落ちたと思った時は、すでに人生の終盤にきている。微光を放ちながら、現在という時を楽しみながら積もって行く美しい砂山の過去に見とれていると、残された未来の時間の少なさに気付かない。未来のガラスに作られる稜線の美しさばかりに見とれていると、怖い蟻地獄の、深い谷間の悪魔に、残された人生を奪われてしまう。そして、『後悔』という空しい時間を過ごさなければならない。
                1991.3.3. y.s.

努力

 努力には、時間が蓄積されている。時間は、万有に全く共通にかつ平等に与えられた唯一の宝物である。砂時計の時間が無くなり、万有の中で、人間にのみ与えられた『努力』は、努力という行為をなすことによって成長するものである。努力という行為を止めたときに、人は砂時計の砂となる。
              1991(H3).6.5. y.s.
 

目標

 砂時計の時間は、砂が終わるような虚しい時間ではない。なるほど砂が無くなって終わるのであるが、実はその継続した事象が終了したのである。その事象はあなたの目標の一つが達成されたのであり、喜ばしい砂時計の終わりでなかろうか。また、次の目標を立てて、あたらしい砂時計をスタートさせる。その時間はこれまでの時間とは違う。新しい目標の時間をつくるのが砂時計である。そこには目標がある。砂時計の時間は目標である。
 砂時計は常に動いていなければならない。人は目標をもって生きている。今日は観光にきている。観光という砂時計が動いて、楽しい時間が過ぎていく。家に帰ったら、また新しい心での砂時計が動きだす。人生は砂時計の時間そのものであると思われませんか。砂時計を御覧になって、自分の目標を砂時計のように立てて頂ければ、ミュージアムの一つの主旨が達成されたと嬉しくおもいます。また、ミュージアムに別の時間を見においで下されば新しい人生が生まれることでしょう。時間は同じではないことが、少しでもご理解いただければ幸いです。また一度、時間について、砂時計について、目標について思慮していただけたら幸いです。皆さん、語りあう時間を、砂時計を動かして見て下さい。お子さん、お父さん、お母さんと話し合う砂時計、恋人と語りあうあなたのこころの砂時計を動かしてみよう。なにかの目標をもって・・・・。
       1995(H7).2.22.,y.s.

思い出

 砂時計は、三際という表現がぴったりである。砂時計には故郷へのノスタルジアを涌き立たせるものがある。そこには思い出という過去の時間がある。 湯川秀樹著の『目に見えないものより』に「少年の頃」という節の冒頭に過去の時間に飛び込ませる美しい文章がある。これを読んでいる傍で静かに流れている砂時計を見ながら私は「思い出」という題に変えてみた。

 『少年の頃は忘れず縁側にひとり
     積木の家を造りし

  二人の男の子ももう今年は九つと十になった。 積木で遊ぶ時期は過ぎてしまった。一世代は本当に短いものである。時は小川の水のように流れる。川の底に残 るのはただ幾つかの小石である。美しい小石、人はこれを思い出と呼ぶ。』

 宿題を忘れて遊んだ故郷の三池(福岡県大牟田市)の山里が脳裏に浮かぶ。砂時計を静かに見ながら美しかった故郷、我を忘れ自然と戯れている情景が浮かぶ。冷んやりとした森の中のせせらぎ、森の木立から漏れる細い一筋の光、その光の中に光輝く銀緑の苔、近づくわれわれに気配を感じてさっと小石の影に逃げる赤い甲羅の沢蟹を、水の冷たさを忘れて追い廻る子供の頃が懐かしく想い出される。また行ってみたくなる。長い時間と思える時間が過ぎたが、恐れずに...。
         1991.6.  y.s.

砂時計と地球環境保護

 砂時計は大きくなると、環境温度により時間、流れが左右されるが、これは容器内の空気の膨張収縮のために起こっている。
 この膨張収縮は、地球の大地でも起こっていることを、この砂時計を研究して認識した。地球を大きな砂時計と見なすならば、太陽により大地は暖められ冷やされているために、大地に空気が出入りしている。その酸素を植物や地中の生き物、微生物たちが生命の維持のために使っている。そのような現象を絶え間無く繰り返し生きている地球を、アスファルトで覆ってしまったら、大地のすべてのものは、息絶えてしまう。植物は枯れ、鳥や森の動物は行き場をなくし、微生物は死に絶え、大地は、死に向かうのではないか。
 現在のアスファルトが、どのような構造かは勉強不足であるが、通気性のある舗装道路が粉体工学的な見地から開発される必要があるのではないかと考えさせられる次第である。
              1991(3).6.10. y.s.

時間を見失ったOL

 「砂時計では時間が判らないワ」というOL。さて、ここにはどういう意味が含まれているだろうか。そのOLは、どのような時間を考えているのだろうか、そしてどのような時間が必要なのだろうか。会社を退社する時間がわからない、何時までこの仕事を終えなければならない、・・・。事をやる時間は、砂時計の時間である。そのことに熱中すれば時間はいらない。事を始める時に、その為の砂時計を動かさなければならない。時計は、OLの身体の中にあり、砂時計が動いている。
              1992.9.     y.s.

自然に生きるとは何か

 人と自然のふれあいを奨励し、環境破壊を無くそう、自然保護に務めようなどという言葉で騒がれている現代であるが、その一方で、人は自然から遠ざかっている。車の騒音、街の騒音、隣のクーラー騒音、身の周りにはなるほどうるさい音が多くなったのは事実である。
 「耳をすますゆとりある生活」が懐かしくなる。私の故郷の家は古い。節穴のある板の雨戸の向こうから聞こえて来る涼しそうな多くの種類の虫の声に、また遠くに走る汽車の「ゴトカタゴトカタ」という小さく移動していく音、汽笛の音などそれなりに夜の楽しみがあった。そのような単純で不思議でもある幾種もの音によく耳を澄ましたころのことを想い出す。
 ところが、人間はそれらの音を技術で消して快適な住まい空間を造ることに成功してきた。壁の構造を改善し窓を二重にする、内部は装飾を施し照明に工夫を凝らす、自然に溶け込もうと美しく飾った音楽を流す、ペットを飼う・・・。なるほど一方では静かな快適な空間が部屋の中に戻ってきたかもしれない。本当にそうであろうか。そのために自然の変化をまで失ってしまったのではないか。うるさくなったからそれを解決することが、考える人間としての自然な生き方であるという考え方もあろう。だが、それは自然という万有の中に生きるものとしては自然との調和から遠ざかっていることであり、真の自然体としての存在的な生き方ではない。
 本来、人は砂時計の砂が流れる音を聴きながら生きているのである。静かに目を閉じ静かなこころになれば、自然の奏でる美しい砂時計からの砂の囁きが、人と自然の調和の橋渡しをしてくれる。自然に耳を澄ましてみようではないか。美しい万有のものが話し掛けてくる。自然に目を向けてみようではないか。美しい自然の神秘的なものが見てくる。そして自然はあなたに宝物を与えてくれる。自然と対話ができるような人間になろうではないか。聴くこころを持ち、見るこころを育てる生き方が必要である。人間と自然との調和がそこにある。
                1991.4.15. y.s.

時間とは


    時間どろぼうとぬすまれた時間を人間に
  とりかえしてくれた女の子のふしぎな物語


 とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわり、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はそのわきまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎと思わないのです。
この秘密とはそれは時間です。時間をはかるのはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味がありません。というのは、だれも知っているとうり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。
 なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中の中心にあるからです。
 このことをだれよりもよく知っていたのは、灰色の男たちでした。彼らほど一時間のねうち、一分のねうち、いやたった一秒のねうちさえ、よく知っているものはいませんでした。ただ彼らは、ちょうど吸血鬼が血の価値を知っているのとおなじに、彼らなりに時間のだいじさを理解し、彼らなりの時間のあつかい方をしました。

           [中略]

 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということは、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとにつめたくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
 でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもと遊んでくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
 けれども、時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。
ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳『モ モ 』より
                1991.3.12.

結婚と砂時計

 『この度は御結婚おめでとうございます。私ごとで恐縮ですが、わたしは5年前から実は砂時計を研究しています。そのなかで砂時計と接していますと、技術的なことはおいときまして、人間として、考えることが非常に面白いことに興味を覚えました。その一つとして、この御両人にお送りしたいことは、人生は砂時計のようなものであると言うことでございます。砂時計は皆さん御存じのように、上下の光輝くガラスの容器からなっております。丁度、今のお二人のように。この中に砂が入っている訳でありますが、この上下が一つになってはじめて砂時計というものを形作っているわけであります。砂時計が動きはじめるにはこの二つの容器がなければなりません。その二つが協力して砂が流れ始め、新しいお二人の人生が始まるわけです。
 1990年に世界一大きな砂時計を島根県の仁摩町に作りました。砂時計は非常に興味ある動きを致します。砂時計の一方を、たとえば下の容器を暖めますと砂のながれはゆっくりになり、ついには流れを止めてしまいます。上を暖めますと、流れが速くなります。このことは、周囲の環境に敏感に影響されることを示しています。ま、人生における荒波とお考えになってもいいかと思いますが、これはどうしようもないことで、それを避けて通る訳にはいけないわけで、当然それを乗り越えていかねばなりません。これからのお二人もやはりおなじくこの人生という荒波を迎える訳です。人生という砂時計が始まったわけですから。環境が変化することによってその流れが左右されますが、それでは砂時計としての役目を果たさないではないかということになるかと思いますが、ま、この砂時計を用いて精確な時間の長さを知ろうとすることは不可能であり、それにはデジタル時計を使えばいいのです。人生はやはり砂時計のように過ごすのがいいのではないでしょうか。いや、人生は砂時計そのものであります。計算どうりに、人生は流れるわけがありません。
人生は砂時計のようにゆっくりとした砂の流れのようだ、とわたくしは考えております。砂時計の上の砂をいくら速く流そうとしても流れる分けではありません。落ちた砂を途中で上げる訳にもいけません。砂を速く落とそうと焦るのではなく、落ちていく砂にいらぬ無駄をしないようにすることが大切でなことではないかと思います。読書をするもよし、旅行をするのもよし、夫婦喧嘩をするもよし、楽しい食事を野外で楽しむもよし、泥んこで帰って来る子供と風呂に入るもよし、昼寝をするもよし...そのような砂時計が動いているわけです。
 あの、ここでですね、砂時計がガラスではなく鉄の容器でできていて孔の部分だけガラスで出来ていたとしたらどうでしょうか。きもちわるいのではないでしょうか。やはりガラスだから中が見えて時間の動きというものが感じ取られる訳ですね。下の砂を眺めることによって今まで過ごして来た楽しかった人生を思い出す。人生は楽しいことだけだけではありません。その砂から苦しかったことを思い出してもらってこれからの励みにするとか、自分達の歩んで来た人生を振り替えるにはやはり砂時計は透明なガラスでなければいけない訳です。
 中が見えるということは、もう一つは、家庭ともうしますか、家族が皆オープンに明るく何でも隠しへ立てなくしているということを現わしているということであります。いや、外から見られていやだという人もあるかもしれませんが、それは違うのであって、明るい良いことを見られたからといってわるいことをした訳でもないですから全然問題外ですね。それよりも、開放的であるということは、皆さんが、友人がどんどん尋ねてこられるということではないでしょうか。人の出入りする家庭、それが生きていくなかで大切なことだと私は思っています。これからの人生は長い。これからも時間は砂時計のように、今と同じ速さで絶えることなく流れていきます。
 そのような意味で、私は一時間の長さを示す砂時計をご結婚のお祝いにお二人に差し上げたいと思いまして、ここにお持ち致しました。 どうか、いまお話しさせていただきました砂時計のように、お二人で力を合わせて、美しく素敵なそして明るいこれからの人生をつくりあげていかれることを、御良家の御両親を始めとして、ここにご出席していらっしゃいます皆様方とともにお祝い申し上げましてわたくしの花向けの言葉とさせて頂きます。』という祝辞を出席した結婚式の披露宴で聞いた。そう、砂時計の二つの容器は男女と見ることができる。二人の出合いで愛が芽生え、砂が流れ始めた時から、新しい生命の誕生、新生活、新しい人生がスタートする。
              1992.9.23. y.s.


永遠と瞬間

 瞬間は短いものであろうと思う。今というときに瞬間は短い様である。抽象的な考えや歴史的な中に入ると長かった時間も瞬間という時間に代わってしまう。過去のことは、瞬間で置き換えれてしまうものである。人生80年の中には、その人の長い長い人生としての歴史が思い出としてずっと刻み込まれているはずなのに、今というときには瞬間に巡り過ぎ去ってしまう。しかし永遠はどうしても永遠でしかない。いくらあせっても、早くは進んでくれない。それは砂時計の一様な有なの流れと同じである。果てしなく続く時間の流れはどこまでも続くのであろう。時間は感じ取るものである。時間はやはりその人のもっている行動の中にあると思われる。人が永遠を感じるのはその人が生きているからである。しかし永遠はなおも永遠に続く。人生80年が、本人には永遠ということになる。だが、その人が存在していたということは、過去の永遠の事実であることは正しい、そして自分が存在を認識しない時が来たとしても、さらに未来に向けて自分は存在し続けるのである。それが永遠というものである。
             1992.10.10.  y.s.

日だまりの時間

 ふと鏡の中の自分を見て頭に白いものが所々目立つようになってきた。顎髭(アゴヒゲ)もよく注意してみたら一部集団となって白くなっているところがあるのに気づいた。父との昔が思い出された。幼少の頃は、どの家でも鶏を飼っていた。ある家は山羊や兎をも飼っているところもあった。今でいうペットではなく生活の糧にするためである。我が家では、7、8羽のチャボとう小型の鶏を飼っていた。
 庭には鶏が砂遊びをしている。鶏もよく観察するとそれぞれ個性があるのでおもしろい。いつも砂の深い良い場所を取るもの、真先に餌を食べるもの、怯えている目をしているもの、人なつっこいもの、いろいろで可愛い。春にはヒヨコが生まれ、忙しそうに親鳥のあとを付いて回り、餌のとり方や砂遊びの仕方を教わったりしているヒヨコもいる、誤って親鳥の砂を掻く足で蹴飛ばされてころがるヒヨコもいる、それでもまた親の傍に行って小さな足で真似をする。最初は、砂を掻く足が空振りでころんでいたが、そのうち上手になり少しの砂を足元近くに飛ばせるようになる。飛ばすのが目的ではないのであろうが、私が見ているとそういう風に見える。彼等にすれば土の中の虫や貝殻、草の根などを探しているのである。またそのような勉強をせずに自分勝手に遊びまわっているヒヨコもいる。しばらくすると鶏たちも疲れたのか、日向ぼっこをし始める。ヒヨコはそれでもしばらくは母鳥背中で滑ったりして遊んでいるが、そのうち雛も疲れて、親鳥の羽の間にもぐり、可愛い顔を覗かせながらうつらうつらしているくる。 そのような日だまりの縁側で、よく毛抜きで父の顎や頭の白髭をとっていたことを思い出した。抜きながら、午後からの約束をして、川に砂取りに行ったりもした。採ってきたこの砂は庭に播き、鶏の砂遊びにもなるが、自分たちの砂遊びにも使ったし、父は熊手で奇麗に目を付け庭の造型にもした。
 つぎの日曜日の約束話もした。楽しみだったのは山に行って竹を取りに行くことであった。自由にとっているのかと思ったが、取ってきた後、菓子包みを持って行っていた。いま思うと竹のお礼であった。その竹で鶏小屋を作ったり修理したり、また垣根を改修したりする。わたしは鋸(ノコ)で切ったり、鉈(ナタ)で割ったりして手伝った。青竹を割るときのあの節が弾ける音とそのときのスキッとした割れる感触は今でも忘れられない。こころが洗われるようである。全部の垣根を緑の美しい竹でつくり変えるときが最もやりがいのあるときであった。出来上った垣根は竹の青さと竹の裏を使った白さのコントラストを浮き彫りにしている。垣根の幾何学模様の規則正しい配列の美しさは、子供なりに満足感を抱いたものである。父もそうであったことは言うまでもない。そして最後にもう一度父と一緒にできあがった垣根を眺めてた。夕暮れせまるたくさんのトンボが舞う秋の夕方であった。
 朝早くからイナゴを捕りに野山に行こう、と約束をしたこともあった。父は、近所の子供達も一緒に連れて行ってくれた。枯れた畑の土手や草むらのイナゴやバッタ、草影のコオロギを捕まえた。バッタを捕まえるのはちょっとやそっとではできない。皆で一匹のバッタを追いかける。それだけ、捕れたときの喜びと満足感で、皆得意化となったものである。長い草に一匹一匹刺していく。よくヘビがでた。多いときは3匹も4匹も固まっているときもあった。それも父は心得たもので、ちゃんと竹の先を鰐口に削って仕掛けを作り、その先はぼろ切れを巻き付けて持って来ていた。イナゴやヘビは鶏の餌である。秋の柔らかい日差しの昼下がり、土手に腰を降ろして皆で食べるおにぎりがおいしかった。最も楽しい父とのふれあいであった。
 白髪を取る本数が何本かになったら、あめだまを買えるほどのごほおびをもらった。少ないときには次のときに合せてもらったりした。日だまりの縁側にはゆっくりとした時間が過ぎていた。
               1994.10.12.  シワ ヤスマロ

生きているということ

 砂時計は時間を測るものではない。また、知るものでもない。砂時計は、万有の動きの存在状態を表現してくれるものである。万有はその存在という大きさを持っており、その大きさは砂時計の存在と同じである。砂時計が壊れたならば、その存在がなくなるのと同じように、万有の存在そのものが無くなってしまうのである。華が咲く、咲いているあいだは、その華の存在が砂時計のように存在している。そしてその華が終わっても華というそのものはまた別の存在として生きつづける。人間の人生、人間のその瞬時の行動が砂時計として表現できる。私は、最近、時間を無限に測る機械時計を身につけないようにして行動している。ルール化した社会には機械時計が必要であるが、その時計に振り回された行動はとりたくない。そのためにわたしは時間に余裕をもって行動することを心得ている。そのためには、身体の中に多くの砂時計を用意して置かねばならない。例えば会社への通勤時間は、自転車なら30分、電車なら50分から60分、雨の時は、電車なら60分から80分、自転車は35分。会議は、社長の場合は60分から90分とばらつく、彼の約束は必ず10分は遅れる、従って実験はいつから始められる、という具合にその場に合った砂時計を動かすのである。その砂時計は時として狂いを生じることがあるが、そのときはまた私の砂時計の砂を正しく調整する。私は自分の砂時計で動いているから行動が楽しい。万有は砂時計のように行動し存在している。(1990.11.22 、新幹線の中で) 今思うに、砂時計が使えないところがある。それは眠っている時である。その状態になる場合は、全く認識することが自分では不可能である。そこには自分の存在がないのであろう。となると時間もないことになる。
人間として存在しているのは、自分というものが意識を正しく認識している時だけであるとみるべきであると思う程である。当然そこには妻や子供、親族そして友人にとってのわたしという者の存在がある。従って、自分が存在しているということを人生の喜びとすることができるならば、人間としての存在を長く、いや、存在を認識するという回数を数多く認識するように生きることが重要である。数多くの認識が砂時計であるし、砂時計は自分自身で倒立させねばならない。その時から本人の存在が砂時計として見えてくる。 (シワ ヤスマロ)

最後の砂時計

 母は1992年4月7日、81歳の時を終えた。草花木が好きであった母。いつも各部屋には花が絶えることがなかった。小学校は家から100メートル東にある。父と一緒に短い巻き尺で、何度も何度も尺取虫をやって測ったことを覚えている。小学校から帰り玄関をあけると、小学生の私の小さなこころに安心感を与える母の声と一緒に花の美しさと花の香りが漂ってきた。厠にも、野の花が無造作しかも清楚に生けてあった。
 今年の桜は例年になく美しく咲き誇り、桜舞う日だまりのベンチでゆっくりとお茶を飲み、遠くにいる孫を思いながら、母は姉と一緒に桜を楽しんだという。そのような話を聞いてまもなく、母の様態が急変し、入院したことが悲報として飛び込んできた。わたしは神奈川から九州へ急いだ。その足で姉の運転する車で病院へ直行したが、母は集中治療室に入って、酸素マスク、点滴そして両手はベッドにゆるく固定されていた。変わり果てた母の姿を見て、涙だがこみ上げてきた。近所のおばあさんに付き添われて意識ははっきりしていおり、母も涙を流した。母の手を握ると、力強く返ってきた。何か言いたそうに、身体をもがきなら、その手は強弱を繰り返していた。...。外して楽にしてやりたいと思い、看護婦さんにお願いしたが、それは無理であった。「子供たちも皆元気にしているよ。心配しないでゆっくり静養して...。」と力付ける。手からの反応はきちっとしていて、「判ったよ」と答えた母の気持ちが伺われたが、やはり話をしたく母の身体が揺れる。物理的な苦しみも当然であるが、母のこころの苦しみは計り知れない。何か伝いたかったであろう。いや、家に帰りゆっくり話をしたかったことであろう。声が出せなかったら、両手の固定を外して、書くことでもしてやれなかっただろうか。今だったら、ワープロのキーボードを差し出して一文字一文字押さえてでも、言いたいことを伝えることが出来たのではないかと思うと残念である。こころ静かに面会できるようにした医療にできないだろうか。母は書くことが好きであっただけに、メモを書く程度のことだけでもできなかっただろうかと残念である。「そのような書ける状態ではない」と、医者は叱るように言うかもしれない。私の時には、最後の一粒の砂に託して、少なくともそうしようと思っている。
 短時間の面会であった。母ともう一度話ができるだろうかと思いながら、待合室で病状の快復を待つ時間は長い。同じように母もそう思って頑張ったであろう。しかしその時間を得ることは遂にできなかった。
 両手が自由にならないような治療方式は、どうしても納得がいかない。意志伝達の手段を書くという方法でもできたはずである。それをやれなかったことはいつまでも悔いが残ってしまった。できなかったかも知れないが、強引にやってみるべきであった。面会の時、母の意識は、悲しみで一杯であったのである。

砂 時 計 と 時 間

1)時間というものは我々の生活の中に形として存在するものではないが、森羅万象がそれぞれのリズムで生命を受け、それをコントロールすることなしに与えられた生命を時間として継承している。現代風の、複雑な、都会的な、工業化された社会の中にあって時計なしでわれわれは生活をすることできない。最近の時計はデジタル化されてその時の瞬時の時間を正確に数値として読み取ることができるようになった。デジタルによる時間の表示は、なるほど時間を正確に知らせてくれるかもしれないが、どうも時間という機械が、あたかも流れ作業の中に組み込まれた気分になる。アナログ時計は全くそのような気持ちにならないのは不思議であるが、しかしやはり時間という悪魔に追われて行る気分になるのは私だけであろうか。このような機械時計は、我々に時間というものを本当に与えてくれているのだあろうか。繰り返されて表示される数値、繰り返される歯車の回転によって円形の数字の上を走り回って行る槍の示す数字を見て、人は何を知ろうとしているのだろうか。それは時の流れというものではなく、まさにその刹那における自分の存在を確認し、安心するために機械時計の数字を認識しているに過ぎない。
 われわれが見ている時間、感じている時間はなにか。食卓に並ぶもから季節感を得ることができる。魚を主に採る日本人には、肉食生活からは感じ取れないが、その魚から季節を読み取ることができるし、果物や野菜からその時の季節感を確実に感じ、時の移り変わり、時の流れを感じる。庭の草木は、自分たちの中に規則正しい季節の移り変わりを感じとっている。そして、四季折々の変化を繰り返し、新緑を芽吹き、花を付け、人の目を潤し、心を安らいでくれる。虫たちは蜜を吸い春季満喫する。万物は、実を結び子孫の繁栄を忘れずに成長を続ける。仏教の時間論に「三世実有、法体恒有」という言葉があるが、過去・現在・未来の三世ともに実存するということであり,そして一瞬一瞬この未来のすべてが現在を通って過去に流れ去っている。そして瞬間のうちに全存在が流れ去ってしまっているというのである。あらゆるものに過去・現在・未来が存在し、なるほど未来が過去となっていることは感じ取ることができ,いまそこに自分がいると言うこと、即ち存在していることを確かに認識できる。しかし、さらにそこには時間の流れがあり、存在という時間が失われているとまでは解しがたい。このことを目で確め、その意味を考えることを起こらしめることのできるものが砂時計そのものでないだろうか。その一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天界を見、一握のうちに無限を思い、一時のうちに永遠を思うのは、ウイルアム・ブレイクだけであろうか。
 コリン・ウィルソン編、竹内均訳『時間の発見』のなかに、「正しい時間の使い方とは、時間を肌身離さず身につけていることであり、時間の配分に多大な関心を払うことである。」とあるが、機械的な仕事や、都会や、時計という、いっそう複雑で合理的な秩序に従わされる社会に生きているいま、砂時計を前にして時間について考えてみることも、粉(砂)屋としての楽しみがあるのではないだろうか。
    志波;砂時計と時間−「粉体と工業」1991.1.

2)サラサラと 静かにおちる 砂時計 あっというまに 3分が過ぎていくのを悲しんでいるように 音もなく落ちていく 小さなびんの中で 時間がこんなに静かに 過ぎていくのが 不思議だ。
    桜井純子(新座市野火高3)、朝日新聞より

3)この秋大きな砂時計をみてきましてね。1トンの砂が1年かけて下の容器に音もなく積もります。それをみて感じましたね。時は過ぎゆくものではなく、身の内に積もりゆくものだなあと。人生あと何年という発想をすててたえず樹木のように天に向かって努力すべきだ。そして、ああこの一年でここまで育ててもらった。有難うと万物に感謝すべきなのですね。
       森本啓一−産経新聞『朝の詩』1991−
4)出雲の西の、仁摩へ行きました。そこには一年計という、とてつもない砂時計のある町で有名なのですが、その巨大な砂時計を目のあたりにして、ほっと心が安らぎました。下部のガラス球には、今年のこれまでの月日が、こんもりと豊かな小山を成していました。
 過去の時間は、過ぎ去り、失い、消え逝くものではなく、こんなふうに、身の内に蓄積されて行くのだ、と実感しました。それ以来、日々月々年々、自身に振り移る歳月を、たまらなく、いとおしく、ありがたく感じています。  杉浦日向子(マンガ家、江戸風俗研究家)

[問題解決の方法論]


 未知のものを開発する際に大切なことは、人の意見をよく聞くことである。技術屋の最も悪い癖は、成功する前に自分の意見を通そうとすることである。特に上司がその態度をとると、それによて、次の意見が皆から出ないようになってしまう。意見を聞くのに価値あるものは、現場の担当者の意見であるとわたしは確信する。現場の実際のデータは、事実である。さらに、その意見を今までの自分の技術と組み合わせよく検討すること。そして問題として残さず解決していくことが重要である。
 今までの知識で解決できなければ実験を行なう。その実験に際して、最も大切なことは周囲の環境条件を固定しないこと。即ち、『実験の過保護』にしないことである。目的のものがどこでどのように使用されるかをよく検討して、使用する環境条件をできる限り取り入れ、幅広い実験を行なうことである。実験室では成功したのに現場に設置したらうまくいかなかった、ということをよく耳にするが、それは実験のやり方に問題がある場合が多く、実験段階で多くの要因を選んでなかったり、環境を変えてなかったからでるといえる。いわゆる実験の過保護というものである。「実験室では大いに失敗しろ」の精神でいくことである。二つ目の重要なことは、好奇心を持ち観察力を養い、いろんなことに疑問をもつこと。物事は観察から始まる。そして自分の考え方との矛盾を探すこと、というより矛盾にぶつかることである。その矛盾が問題解決の糸口になる。 三つ目は、一度や二度と常識を破ってみること。常識に固まってしまうことほど技術の開発を遅らせるものはない。「それは常識だ」と上司によくいわれたものだ。そのような上司は我々研究者が頼りないからついついそのような発言をしてくるのだと思うが、常識と判っているなら、最初から研究はまったくやる必要はないと思っている。 ノーベル物理学者の湯川秀樹博士は、岩波の文化講演会(1973年9 月)『世界の構造と変化』の中で、好奇心について次のように述べられている。
 「大学で教えている時に特にこういうことをわざわざいろいろ言うたのです。ここんところは判らん。ここんところまでよくわからん。わたしの講義の中では随分度々それを言うたんですね。学年末試験の問題のついでにですね、わたしの講義の感想を書く欄を設けたら、答案のいくつかに、『先生の講義を聞いておって、聞く前は物理学というのは極めてそのはっきりしたもんであって、話を聞いたらですね、物事がちゃんとみなはっきり判ってくると思ってたら、こういうところがよく判らんとか、ここはまだ判らんとかいう話があんまりあるんで、非常にがっかりした。こちらもなんだか頼りなくなってきて困る』」という答案があったんです。ところがそれはまさにわたしが期待しておったことと反対なことで、『わからんこともあるから、おおいに自分で研究したらよかろうと、なにか研究もできるだろうと、そういう気持ちも出てくるだろう』と思もっていたのでそのような講義をしたんです。ところが学生は『それでは頼りない』というわけです。しかし、わたしは頼りないことのように見られていることに対して、『頼りないことがあることがよい。頼りないことが何もなくなったら、何も研究することはない』というたんです。これから皆さんもですね、ま、お幾つになられても、何か好奇心を持って、好奇心を持つことはよう判らんから持つわけです。知りたいと思うことがあるから、判らんことがいくらでもあるからと、わたくしはそういうつもりでやっとるわけですよね。そうすると非常に楽しいわけですよね。」云々、と研究の意気込みを話されている。
 だれもやったことのないことをやることは、やってる本人もはらはらしているものであるが、湯川秀樹博士はこれが楽しいと言われている。わからないから研究し実験をする。そこに問題解決の糸口がある。

[日常の粉屋が砂時計を創れる?]



   粉は手で触るな
    机の上はいつも粉でざらついているべからず
    研究の場は、相撲の土俵である
    よく粉を観よ

 砂時計の大敵は、日頃目に付き難い”空間に舞う糸屑”である。この糸屑は、日頃の砂に存在し、砂の落ちているところには必ずある。そのような砂の散らばっている研究所では砂時計はできない。机の上は毎日掃除しなければならない。わたしは相撲を見るのが好きであるが、取り組みの度に奇麗に土俵を掃き、最後に土俵の外周りを一周して帚の目を付けながら整備されているのを粉屋として見て考えた。土俵が掃き清められていることは、粉屋の精神に通じるものがあると思った。相撲は国技であり、塩で清められた土俵で、精神を統一して取り組みが行なわれている。帚で掃くことは物理的には、競技中、僅かなはみ出しがあった場合でも帚の目が乱れるためその判定がはっきりと判断できる。砂を利用して帚の目を付け、今でいうセンサーの役目をさせているという昔の人の知恵のすごさに驚くばかりである。
 相撲とは逆に、粉屋の場合は机の上が土俵であり、研究を始める前には砂、粉、埃がないように清掃しておくことが粉屋の精神であるということを相撲から教えられた。もし机の上が粉で汚れていたらたならば、粉が装置から洩れていることに気付かず、ついには装置の異常は発見できないであろう。しかし、綺麗に清掃された机(土俵)ならば簡単に洩れの異常を発見することができる。その洩れた粉の状態をよく観察し分析することにより、いろんなことを知ることができる。清掃することは、情報を得るための業である。粉屋としての鉄則を噛み締めながら清掃することがまた、鉄則である。粉で汚れていたら単に清掃するだけではいけない。どのように汚れているか、量は、散らばり方は、種類はなどによく注意して清掃しなければならない。それもまた楽しい。
 手で触られた砂を用いた砂時計は、流れはしない。砂時計の小さな砂が小さな孔を通おるときには、粒子同士の相互干渉があるから、手で触れられた粉は表面が油ぽくなって流れが悪くなる。絶対に手で触わってはならない。これは砂時計の砂だけに限ったことではない。よく容器や袋に入った粉を手で触っている者を目にするが、まずそのような者は粉屋としては失格である。料理人が味付けを見る時には、小皿にとってなさっている。この精神である。

[創意工夫]

 −予算のないなかでの実験装置の工夫−


 砂時計の命は、砂と小さな砂時計の孔である。小さな孔を孔よりさらに小さな砂が間断無く流れているのである。この孔の大きさが砂時計の大きさを左右するから如何に、小さい孔まで出来るかが問題である。この孔をどこまで小さくした砂時計ができるかという研究は砂時計の予算の決定からわれわれの重要なテーマであった。かといって、このノズルを度々つくるには時間と費用が掛かる。いままで実験に使用した孔の大きさは1mm以上であり、これでは1トンの砂は1年かからずに流れてしまい、もっと小さな孔にしなければならないことは研究の結果判っていた。予算がない。それなら、費用と時間を節約するには自分で作るしかない。いろいろ考えた。ふと手元を見たら、シャープペンの芯が目に入った。そうだ、この孔をつかえばよいではないか。わたしの使っているシャープペンは、0.9mm 針である。これは最適な孔だと考え、千円のシャープペンを犠牲にした。ところが先端の長さを1、2ミリに切ったものを砂時計にどう固定すれば良いかが問題となった。次に、砂時計の容器はどうするか。2ケの容器の固定はどうするか。次々と問題ばかりである。創意工夫である!実験の目的は、砂と孔の関係を研究することであるから、形や外観はどうでもよいので、三輪先生のアイデアをお借りして容器は理科の実験に使う三角フラスコを二つ合わせることにした。ここまではすぐに考えられたが、0.9 ミリ直径、長さ1ミリのパイプを固定する方法がなかなか浮かんでこなかった。2,3日あれやこれや考えた末、木で作ることが浮かんだ。わたしは篆刻の趣味がありこれまでいろんな木をいじっていたので、木には中央が綿のようにやわらかくなっているものがあることを知っていた。この孔をそのまま使えないかとも思って、箱の中の木切れををガサゴソとさがした。孔の円錐の加工はアイデアがあったので問題ではなかった。良い木があったが、孔の直径はどうも2ミリ以上もある。これでは使えず、小さなパイプの固定もできないことが判った。仕方ない、こうなったら篆刻の技術で削りだすしかないと決心して、さっそくドリルで概要の孔を円錐形につくり、後は注意しながら彫刻刀で加工をして、切り出したシャープペンの0.9 mmのリングを固定した。孔は顕微鏡で見ながら研磨材で平らに仕上げをしていった。ついに見事に完成した。0.9 ミリの直径の孔を有した砂時計が完成したのである。それからはさらに小さい孔を探したが、そのような細い管が市販されていることを知り、購入して作った。ガラスノズルではなく、そのようにして作られた木のロートと小さなリングの組み合わされたノズルでの実験がしばらく続いた。
 JR出雲市駅の通りの高瀬川の傍の小さなお寺(念仏寺)に次のよう
なことが書いてあることに気づいた。平成7年6月である。
  

     創意工夫には
       限界がない
     もし限界が
       あるとしたら
     それは気持ちの
       限界です

[創造をモノにする]



 1年の砂時計と1分計砂時計の関係をどう結び付けるか、考えるほど頭が痛くなる。先にも書いたように、1分計をよく観察し考えることからしか方法が沸かない。当然、いっぺんに1分計から1年計を作るわけはないのであって、1分計を眺める時間を多く取った。実験道具などがないときにはどうしなければならないか。金も時間もない。時間がおしい。やるしかない。しかたない、自分で工夫して創るのである。砂時計はよく手つくりで作った。そのためには、わたしの小さい頃からの癖であるが、なんでも捨てないで身の周りに保存しておく。木切れ一つでも小さなスプリングでもである。またどこになにがあるかを日頃からよく気をつけて知っておくことが重要である。それをわたしは「ゴミ箱研究」と呼んでいる。これは創意工夫の一つの大切なことであると思う。
思いついたことはすぐに試すこと、実験することが創意工夫したのもをモノにする秘訣である。 これは小さな木切れだけではない。実験器具であり計測機器でもある。目に見えないものは、計測機器を使って観察できる形にできるようにしておく。さらには専門知識であったり、専門外の知識であったりもする。最も大切なことは、いろんな友人を持っておくことである。電話一本で相談ができる友。失礼な言い方で申し訳ないが、わたしは、そういう意味では友人もいい意味で木切れ同じものであると考えさせてもらっている。人だけでなく、万物すべてを大切にすることが創意工夫の一歩である。人間は裏切るけれども、これは人間の性でどうしようもないが、その人間も何かには使えるかもしれない?。現場の大切さ。砂時計をいつも観察することは、現場でなけらばできないことである。いつもその現場にいることが最高であるが、そうでなくても現場の人の意見を十分に聞くことがいかに重要であるかも砂時計から改めて教えてもらった。
 中学生が言っていた、「人」というと「こころ」があるようで、「人間」いうと「動物」のようである、といった微妙な表現をおもいだした。

[だれもやっていないなら、勘を使うしかない]



 だれもやっていないことであるから、それじゃ、しかたない。実験を効率よくやり、実験をずぼらにやる。これで実験のスピードが大幅に短縮できるのである。その実験から得た結果を元にして、カンを働かせるのである。その結果をまた実験で確認して、次の実験をやる。現場実験である。研究所ではあるが、わたしは研究所は嫌いである。研究室も、わたしは実験現場であるといつも考えている。したがって、むやみに現場には入ってくることは謹んで欲しいと思っていた。最先端の情報が洩れる怖れがあるからである。倉庫のようなところでしかも木切れでつくった装置であるから、誰も興味がなかったようで、入ってくるものが殆どいなかったのが幸いであった。わたしの研究室はそのようなところであった。しかし、人にはよく遊び心で話をすることが大変好きである。砂時計の話しになると、何時間でも話しつづける。今回の1年計砂時計について取材やって来た新聞記者や雑誌記者、テレビ取材者などのときは、話しが止まらないほどである。そのなかからでも、ヒントがでることもあると思って、相手のはなしを注意深く聞いていることは楽しいものである。砂時計の専門家を知っているとか、砂時計が欲しいという人がいるとか、このような砂時計の使われ方がある、どこに砂時計の名前の食堂や喫茶店があるとか情報が飛び込んでくる。簡単な質問がでると答えに困る場合もあったが、これらは大きな勉強になった。砂と硝子が接しているから砂とガラスの表面は擦れ合って、砂やノズルは磨耗しないですか。そうなると、砂時計の中はどうなるのあろうあか、時間の狂いがどうでるのだろうか...。そのような話の後は、技術的な思考や検討をすることになるが、それがまた楽し。話はアイディアの宝庫であり、私はカンを働かすように聞く耳を大きく開いて聞いている。

    

[経験しないと先には進まない]

 いろんな情報は目に見える形にしなければ宝の持ち腐れである。失敗は早いうちにすべきであるというのが、わたしの考え方である。実験は失敗するためにある。失敗することが楽しいし、うれしい。こう言うと、普通は変人扱いされるのが、しかし、うれしい。当然、誰も知らないことがその失敗から発見でき、再度の、再再度の実験してその法則が見つかり確認できた時が、技術者として最高の喜びを感じる。失敗しないような実験なら最初からしないほうがよっぽどましである。時間と金の無駄をしたことになる。その実験は、担当者の気休めしかないのである。それには給料を払うべきではないのであって、逆に罰金である。成功したのは、今までの知識と同じでありなんの進展もない。実験をやるかやらないか、左の道を進むか右の道を進むか、どちらかを選択しなければならないのであるから、実験に入る前には全知識を集中し、その実験をどうずぼらにやるか検討しなければならない。それには実験要因の検討を十分過ぎるほどに行なわねばならない。失敗をすることは、新しい知識が増えたことになる。いま失敗することはまだ初期であるから、実験のリスクは少ないはずである。次のときには失敗はしないのであるから、その意味でも早いうちでの失敗は一石二丁ということになる。いやそれ以上のメリットがでる。

[臨機応変]

−14m 高所、トラブル発生。年の瀬でのアイデア−


 砂時計は12月25日からコンピューターの設定に入った。(有)田中軽電工業の田中さんと3人での作業が始まった。まず、荷を持ち上げるに必要な長さのロープを近くの金物屋から買ってくることから始まる。約25メートルを買う。装置をこの長いロープで手で引き上げる。小学生のころの私の家は、井戸であったので水汲みが大変であった。特に風呂の水汲みは大変で、何回も何回も両手に下げたバケツで運んだのものであった。よく釣瓶(ツルベ) の紐が切れて水汲み桶が井戸の中に落ちた。その時は、錨(イカリ)を使って、その落ちた桶を探し当て、引き上げた。そのような要領で荷揚げを行なった。それからセッティングが始まる。電気配線は田中さんの担当で、われわれは砂時計からの圧力パイプの配管担当である。基礎実験でやった通りの方法で圧力端子を取付ける。なれない高所での作業はなかなかはかどらなかった。安全ベルトを掛け直すにも足元が震えるほどである。
 コンピューターのソフトの組み込みが行なわれ、どうにか流せる状態まできたのが12月28日である。さっそく会社で実験した通りの自動制御の実験に入ったが、どうもうまくいかない。ソフトの点検、機械的な装置の点検を何度やっても、制御が命令に対して遅れており砂の流れが予定通りながれない。命令に対して反応が遅いのである。夕食をとる時間も惜しい、時間が欲しい。宿からは心配して頂いて電話が入る。夜8時頃になって頭を冷やす意味でも、宿に戻って夕食をとることにした。仕事は時間外となっているが、これからまた仕事なので、ビールというわけにはいかず、当然話の話題は、何故うまくいかないかということである。民宿のおばあさんも心配されていることがよくわかった。「風呂に入って気分転換しんさい」というわけである。順番に入って、再度出かけた。 制御実験は田中軽電と王君が担当していたので、その状況をもう一度振り返ってもらった。14mのステージの上で3人は腕組みしながら腰を下ろして討論した。その結果、圧力配管に問題があるのではないかということになった。配管の先端が針では細過ぎる可能性があるという考察である。さて困ったことになった。時間も夜中であり、当然田舎の町に欲しい部品が手に入るはずはなかった。段ボールの中をあせり、何かないかと探した。ホースを直結する案が出てはいたが、それを加工する道具がないのである。時間は零時を過ぎ、もう日が変わり29日になっていた。田中さんの持って来た道具箱の半田こてが目に着いた。
これだ!ハンダこてを使うことにしてビニールパイプに大きな孔を開けることができた。ここにパイプを直結し接着剤を流し固定してその場をしのいだ。これで針孔に比較して、空気の流れ抵抗が小さくなったはずである。早速、実験開始。うまくいった!3人は握手をして喜んだ。 時間はもう午前4時を過ぎている。一気に睡魔が襲って来た。データーの整理と簡単な後片付けをして下におりていった。田中さんの運転で宿に着いたのときは5時をまわっていた。そっと戸を開け二階に上がっていったところ、登りきった左角に3本の大ビールとおばあさんの手作りのおつまみが白い布巾を掛けて置いてあった。おばあさんに申し訳ない気持ちで、さっそく、今日の反省と、できた喜びを祝して祝杯をあげた。これまでにこれほどの満足感のできる喜びはなかった。われわれのことを気遣ってビールまで置いて頂いたことが、最高の祝杯となった。あたかも、成功して帰ってくるのを察しての心遣いと思わずにはいれなかった。
 ここまできて成功しなかったらと今思うと、よくぞ工夫できたものだと不思議というべきである。「窮すれば通ず」とはこのことかと思わずにはいられないかった。

[観察と方針変更]

−詰まりの張本人は自分!まさかの糸屑−

 砂時計は孔より大きなものが入っていては絶対に流れない。糸屑などは、数十ミクロンと細いが長さは数ミリほどあり、曲がりくねっている。中には長さ方向に通過する場合もあるかもしれないが、その確率は相当に低い。従って、それは絶対に除かねばならない。糸屑が孔にひっかかっているかは、砂時計をよく観察することによって確認することができる。しかし、それを取り除く方法が確立されてなく、しかも何処から入るのか原因がなかなかつかめなかった。たくさんは入っていないだろうと思って、そのひっかかっている糸屑を紙縒(コヨリ )を使って一個一個取り除いていたが、いくら取っても減っていく傾向がでなかった。これはなぜか、どうしても理由が判らなかった。実験用の砂時計はゴム栓で密封してあるので、砂の出し入れが自由にできる。ノズル部分に糸屑がひっかかっていると、その小さな孔を利用して紙縒(コヨリ )を使って取り除くのである。糸屑が減らないというのは、どう考えても途中で糸屑が進入しているとしか考えられなかったが、しかしそれでも進入経路がわからなかった。このことは三輪先生にも連絡しデーターも報告していた。
 あるとき、生活文化研究所の井上さんに電話した。良い観察をしてもらった。「そう、こちらの砂時計も糸屑がありますよ。」というわけである。そこまでは普通であるが、やはり女性である。服装をいつも替えての出勤。これが相をそうしたのである。「わたしがセーターを替えると、それと同じように、詰まる糸屑の色が同じよ」という返事だった。「ひらめいた。孔のゴム栓をあけて紙縒(コヨリ )を使っているということはそこから入っている」ということを確信した。われわれはいつも同じ作業服であり、糸の種類は変わりなかったのでそのことには気付かなかったのである。
 よく観察するとその傾向は十分に考えられたのである。「ゴム栓を開けると同時に活きよいよく外の空気が進入する」のである。ノズルの部分の砂をみているとそのことがよくわかる。そこでその空気の流れによって糸屑が一緒に入り込むことに確信を持った。これは大変な現象であることが予想された。砂投入系を開放することが糸屑を迷い込ませるということがわかった。あの大きな砂時計への砂投入に際しては、絶対に開放してはいけないということが重要な研究課題になったのである。
 そこでいろいろな砂時計作りの工程において、埃が入らないようにする考え方は辞めることにした。その代わり、それぞれの役目をもった工程の研究をすることに力を注ぐことにした。たとえば、いま、ふるい分けをしている目的は、大きなものを少なくするためである。乾燥は、水分を飛ばすだけで、大きな粒子や糸屑は入っても気にしない。二回目の精密なふるい分けは、使用している網の目より大きな粒子がとれるようにする、というような考え方にした。これにより各工程の進行がグッと早くなった。いわゆる手抜き作業である。この「手抜き作業」を技術者としてどう解釈するかの議論は別にすることにしよう。

[観察の重要さ]

−蝿が滑り落ちるガラス窓−

 何でも気になるわたし、とことん納得しないと気がすまないわたし。そうでありながら面倒くさがりのわたし。「志波の下宿のガラス窓は蝿が止まれんやんけ」と言った26年前の友人を思い出す。
 わたしは学生時代を京都国際会議場のあるところからさらに北へ3キロほどのところの岩倉実相院の近くの大きな農家に一人で下宿していた。おじいさんとおばあさんの二人住いである。息子さんは京都の西陣のほうで呉服屋をなさっており、時々見えられていた。一人の娘さんは二軒先に嫁いでおられ、毎日のように顔を出されていた。おじいさんは、わたしの父が学生であった頃の友人で、私が大学の2年生になるときにここに移った。今までは大学まで歩いても25分くらいで行けたところだったが、岩倉からでは相当に遠くなり一時間はかかる。大変だと思ったが、父のアドバイスで移ることになった。更にすぐ近くには、同じく父の友人がおられ、よく食事やお茶に呼ばれたものであった。
 わたしの部屋は二階の8畳と6畳の続き部屋の二つを安い下宿代で使わせてもらっていた。南側と東側が全部窓で朝日の陽差しが早くから差し込んでいた。部屋が広いせいもあったが、それよりも親切なおじいさん、おばあさんであった為、友達が入れ替わり立ち替わり来たものであった。おばあさんはよく柿、トマト、西瓜、とうもろこしなどの果物や煮物、餅など二階のわたしに声を掛けて、下さったものである。お祭りのときは、春先のひよこから飼った鶏を料理して美味しい鍋を囲ませてもらった。鶏の刺身を頂いたのははじめてである。いまでも忘れられないのは、一週間も前から手をかけて作られた鯖寿司である。これを庭先にるお茶の木からつくった自家製の焙じ茶でたべるのは最高の味である。秋のお祭りのくりかえされる決まった行事の一つであった。冬は竃の前で座をつくり、薪を燃やしながら、おばあさん手つくりの番茶を底の黒くなった大きなやかんで沸かしながら京の漬物を味わいながら、学生生活を謳歌させてもらった。友人も何回お相伴に預かり下鼓をうった。
下宿代は、毎月わたしの手作りの封筒で印をおしてもらう形で支払っていたが、その場で、袋から一度出して、それから「とっときや」と、何度となく下さったものである。おばあさんはお寺の出であることを話してくださった。おばあさんに教えてもらったことは、掃除というものは簡単でいいから、毎日するのが長持ちする秘訣だし奇麗になる秘訣だよということであった。話しながらでも、掃除の手をやすめることなく拭掃除をなさっていた。暖が薪を焚いての暖であるために部屋全体が黒ずんでいたが、さすがにどの柱もどっしりとした黒光りを放ち、時間の経過を物語っていた。それは勉強も同じだよと付け加えられた。なるほど、継続することが如何に大切であるかが、柱や床の光沢からよく理解できた。「継続は力なり」という言葉が好きになったのもこのころからである。これは粉屋の精神にもつながるところがある。無数にある砂粒の中から異物を取り除く持久力はこの辺にあると思う。
 私の学生生活は炬燵台を勉強机にして東、南の景色を見ながら勉強し、夜は蚊帳の中からの月見という学生生活であった。むかしは網戸が無かったし、蚊取線香も危ないということで使わなかったので、蚊帳を張っていた。もちろん、冬はストーブなしで炬燵に半天姿であった。レポートの作成のときなど友達の友達のまた友達がきて部屋が一杯になったときもあった。


下宿の2階、45年前の20歳の頃の筆者。計算尺を使った計算〜が懐かしい
 
 試験の時期やレポート提出の時期になると大阪の友人などはよく泊まりにきた。彼は、私の下宿している素晴しい環境に楽しみを感じていた。土曜日からきて海水パンツ持参で泊まり、日曜日は、近くの池へ水泳によく行ったものである。ある日その彼が窓に腰掛け外の景色を眺めながら曰く、「志波、お前のところにくると、窓が大きく、多いせいもあるが、いつも明るいな。それより窓のガラスは入っていないのではないけ。蝿も止まれないほどピカピカやな」と感心していた。また、平成6年10月、北九州に家をかまえている岩倉での学生時代のもう一人の友人に20年振りに会って、30年もむかしの昔話しに一夜を過ごした。奥さんに紹介する時に最初に出たことばが、驚いたことにその窓のことであった。「志波の下宿の窓ガラスはワックスが掛けてあって凸凹がなく、蝿が止まれんかったもんな。皆の噂だったんよ。そんな奴だったよ、志波は」と紹介したのである。蝿とガラスのことは他の友人達の噂になっていたことをここで初めて知らされて驚いた。私も汚れは気になるが、それにしても彼等もその美しさによく気がついたもので、同じように彼等も観察力が鋭かったのである。
 砂時計のガラスの汚れをチェックする技術はそのころからあったようである。砂時計の汚れは当然砂の流れを大きく左右する。いろんな洗剤を使って、砂時計のノズルやガラスを洗浄しては流れの実験をした。洗剤の種類によって流れが微妙に違うことも何回ものテストで感じていたが、砂時計の実験はなかなか成功しなかった。ガラスだけではなく砂もいろんな洗剤を使って洗ってみた。それでも、どうしても砂の微塵が付着するのである。洗剤の砂時計に対する選定方法は特別な測定機などがあるわけでもなく、専門的であり苦労していた。
 あるとき、フラスコで作ったどうしても成功しない作業台の砂時計を、学生時代の窓越しの十五夜を眺めるように、じっと見つめていたら、一筋の綺麗な透明な筋が付いているのに気付いた。それは丁度、窓ガラスの汚れと逆の現象である。わたしの下宿の窓ガラスに一筋の汚れがあるを気がつくように・・・。「おや、変だな、なぜここだけ奇麗になっているのだろう?!」と思った。そのフラスコを洗浄した過程をよく考えた。普通なら、原液の洗剤を水で何倍かに薄めて使う仕様になっていたのを、そのフラスコを洗うときは、原液を直接注いで、それから水を入れてブラシで洗ったことを思い出した。原液が筋になって流れ込みそれが筋となり奇麗になったのではないかとおもった。それではというわけで、原液を入れて原液がフラスコ全体によく濡れてから水洗いをするという方法をとってみようと、ひらめいた。さっそく実行。乾燥させ砂を入れたところ、みごとに成功した。 このことを粉体表面の権威者である東京理科大学の小石真純教授に伺ったところ、その洗剤でガラスにコーティングされ新しいガラス表面になり滑り易くなったのである、と助言して頂いた。どういう構造でコーティングされているかは、洗剤の物性とガラスの物性をみなければならないとのことであったが、いずれにしても、この現象を応用することで砂の付着が無くなったことは大成功であった。先生から、「よく気付かれましたね」、とお誉のことばが添えてあったことは一技術者として嬉しかった。
 この成功に至ったことを考えると不思議である。友人の一言とわたしの趣味と気になる気質、観察力、何故と疑問を持つこと、好奇心を持つことが重なった成功例であると思っている。この例ではどの要因が一番重要かという序列は全く付け難い。彼の一言、彼が大阪の都会人であったこと、よく遊びにきてくれたこと、父がここへ変わるように言ったこと、それに従ったこと、環境のよかった下宿、親切なおばあさんたちであったこと、丁度彼が来たときはシリコン入りのクリーナーを使ってガラスを研いていたこと、たくさんの洗浄実験に失敗していてもあきらめずに何回もテストしたこと、また仕様書や常識を信用しないやり方をやったこと、何でも疑問をもてる人間であること、...。技術の成功とは、そういうものの積み重ねであると思う。不思議な関係である。

[妥協を許されない砂時計つくり]

 わたしは化学工学の出身であるが、大学では実験は50%成功したらよしと教わった。計算尺でのレポートや設計あるから、有効数字3,4桁で十分であったこともあるかもしれない。ついラフな考えになる傾向がある。それはそれとしてしかし、砂時計の場合は全く通用しないことであり、砂時計の場合は100 %成功しなければならないのである。この「100 」ということは、学校の試験の点数が100 点というのとちょっと意味合いが違うと思う。点数の100 は、ちょっと頑張ればだれでもとれるものであると思える。砂時計の100 %は100 個の砂粒が全部小さくて砂時計の孔を通過すれば100 %というなら簡単である。ここでいう100 はそうではないようである。砂時計の砂1トンの砂の数は6400億粒ある。この6400億の砂つぶが全部通過しなればならないとなると、...こりゃ大変だ!ということになり、気が遠くなる。目的を達成させるには技術的な妥協は許されないことが理解されるでしょう。ではどうするか...。そこにはちゃんと網の神様がいて助けてくださるのである。その網をどう使うかが粉屋の見せ所。網が途中で敗れたらどうする。これは大変、せっかくふるい分けたものが全部駄目になるのでこまめに受ける容器を変えたり、スタート前には網の破れの点検をするなどの対策を立て操作した。大きく破れるのは確認し易いが、小さな破れは発見し難く致命傷となる。ふるい分けしているときに大きなものが飛び込まないようにする対策、飛び込んだらどうするか、飛び込んだどうかのチェックは不可能に近い。神様にお願いするしか方法はない。一個位、大きな粒子が入っていても良いでしょうという妥協は絶対に許されない。砂時計は、全量の検査装置でもある。

[もう一つの妥協]

 つまったら、そこを写真のシャッターのようにしておいて、詰まったということを感知してサッと開き流してしまえば良い、という面白いアイデアもあった。また、詰まったら同様に感知して、トントンと叩けば良いという案もでた。いずれも粉やとしてのアイデアではなかった。しかし、砂時計は重力という自然の力を利用して自然に流れるものであるから、わたしはそのような方法は採りたくなかった。そこには砂時計という厳しい砂つくりに命を掛け、その成功を夢見て研究して来た。自然の流れの砂時計つくりと粉屋の砂つくりにこだわり、そのアイデアには妥協できなかった。

 [砂暦に関する報文]

 砂暦についての技術的なことと、一年計砂時計を作った意義についての詳細な報文を以下に記した。

1)三輪茂雄:日本顔料技術協会記念講演、大阪科学技術センター(1991.5.24.)
 ”巨大砂時計博物館を作ったパウダーテクノロジー”
1)三輪茂雄:日本鉱業協会特別講演、東京機械振興会館(1991.6.11.)
 ”巨大砂時計を目玉にした仁摩サンドミュージアム”
2)志波靖麿:ふるい分け混合合同分科会発表講演要旨集、出雲市(1991.6.20)
   ”世界一巨大砂時計におけるふるい分けの役割”
3)志波靖麿:化学工学米沢大会技術講演要旨集、米沢市(199 1.7.2
   ”化学工学的見地からの巨大砂時計”
4)三輪茂雄:新島襄生誕150 周年記念講演会講演、名古屋今池ガスホール (1991.9.19.)
   ”地球を考える砂博物館”
5)志波靖麿:粉体工学会誌、Vol.28 No.11,28 〜35 (1991)
   ”巨大砂時計−細孔からの完璧な流れ”
6)三輪茂雄:『へるめす』岩波書店、No.31,35〜39(1991)
7)志波靖麿:PHARM TECH JAPAN,VOL.8 No.4(1992)
   ”砂時計の時間制御”−世界一砂時計−
8)志波靖麿:粉体と工業、VOL.24 NO.6(1992)
   ”粉体工学の中の砂時計”−一年計巨大砂時計−
9)三輪茂雄:粉体工学会誌、Vol.29 No.7,24〜29(1992)
   ”巨大砂時計におけるスケールアップの課題について”
10)三輪茂雄:日本粉体工業技術協会第11回通常総会特別講演、 如水会(1992.5.21)
   ”中国および南北アメリカの鳴き砂”

・・・・砂時計の本-06//

あとがき

 砂時計の研究を一緒にしてくれた王勇君。残念ながら仕事がら彼と別れねばならなくなったが、中国安徽省(Anhui) から東京大学に留学した後、就職してきた彼との協力体制ができたことは大きな成果であった。
よく議論もした。彼も郷里がある。郷里を思う心は私と同じ、いやそれ以上に郷愁は強い。いつも十五夜になると郷里の話が話題に登った。中国安徽省の満月、九州の満月、仁摩の満月、どこが違うのだろうか、違うはずがない。幼少の頃そこかしこから聞こえてくる虫の音を耳にし、星を眺めたり、ひんやりとした静風を肌に感じながら、わたしも両親、兄、二人の姉、弟と家族で縁側に座を設け、静かな秋の夜を過ごしたものである。やはり郷里は良い。人生50年を生きて実感する。もっと早くそれに気付いていたらと後悔した。わたしは100歳まで生きるといつも思っている。丁度私の砂時計はもう一回スタートしたのである。大きな砂時計を作った仁摩の人々の暖かい心が私に郷愁を思い出させてもらい、さらに人間関係の大切さを教わったことにお礼を申しあげたい。
 誰もやったことのないどでかいこと。当然できるかどうかは誰も判らない。しかし砂時計をつくることが町の活性化であるというそれに執着された町長。その考えを町長に賛同し町民あげて関わってなされた大事業であった。この賛同を得るまでには、われわれには判らない並々ならぬ御苦労があったのは当然である。若者との対談、足で稼ぎまくった交渉・・・・。一つ一つを解決しながら作りあげられた世界一の砂時計の完成は、町長の苦労の分だけその喜びが大きかった。それはスタートしたときの町長の笑顔、自然に出た力の入ったその握手感から、一技術者として十分に感じ取ることができた。
 その良い想いの郷里の場をつくってやるのが親の子に対する責任ではないだろうか。
 難しい技術的なことはできるだけ省いて、この仁摩町の砂時計の製作に際しての苦労談や感動的なこと、自分に感じたことなどを読者の方々のご批判を受けることを覚悟で記録的に書いてみたものですが、1995.2.21. 神奈川県立高校入試。 第一校。
 この本をまとめようと思ってから出版するまでにまた時間が過ぎてしまった。砂暦はまたもう一回方向を変えることになった。砂暦は6回目を始動し始めた。ミュージアムに来た方々に見て欲しいものは、二つある。目に見えるものと見えないもの。目に見えるものは大きな砂時計であり、砂の展示物である。時間の表現として同時に展示されている連続の過去の時間を表示したテープ年表がある。また、自然環境保護を訴えている鳴き砂や微小貝など、それに関した資料などがある。もちろん展示物を見るだけではなく建築物を見るのも良い。なぜピラミッドなのかを考えても面白いと思う。私は、粉やがピラミッドを提案したと思っている。ちょっとそのロマンを述べると、クフ王は自分のお墓をつくるに際してどのようなものにしたらよいかを皆に募った。そこで粉やの私は砂の安息角を思い出してこの形にしたらいいのではないかと考えた。粉をいじっている私は、この形は、王様というものを良く表現していると思ったのである。王様はこの一番頂上に位置しており、それを人民が下で支えいる。砂の一粒一粒が人民というわけである。その粉屋は、角度をどれだけにすればいいかと考え実際に安息角をつくってみた。もちろんできるだけ高く作ることが今回の目的であり来る日も来る日も何度もチャレンジしたところ52度以上にはならなかった。これで決心した。そのときに新しいことが発見された。この砂山は簡単には壊れないことであった。この山を持ち歩いても全く壊れないのである。これはいい。「世相が安定しているということにもつながる。無数にある砂はそれぞれが役目を果たして安定した山を作っている」。「このような砂は表面が非常にきれいでそれぞれが共通な性質を持っており、強い絆が結ばれている」のである。「王様、私は粉屋でこざいます。私は砂でピラミッドを作って見ました。その型と砂の安息角の角度をお使いくださることをお進めします。これはもう最高の高さでございます。この砂山は大きな意味を持っています。砂の一粒場一粒は国民一人ひとりです。その頂点にいらっしゃるのが王様です。すべてを一望できるところにいらっしゃる王様をわれわれはそれぞれの立場で王様に使え、支えています。そして王様は高い高いピラミッドの頂点にお立ちになることで天に近づいています。このように。しかもこの砂山はそこらの砂山のようにちょっとやそっとでは揺れても崩れません。この砂山は私の家からそれなりに注意してもって参りましたが、砂は一粒も落ちることはありませんでした。いかがでしょうか。この砂山の形をご採用されては」この提案は王様の決意を間断なく遂行し、今のピラミッドができたのです。その粉屋はたくさんの褒美をいただいたということである。その行方は知れない。そのようなロマンを時間を越えて考えてみた。
 目に見えないものは来た人がそのようなことを考えてもらうことである。砂時計の時間とテープの時間は何を表現しようとしているのか。なぜ鳴き砂が展示されているのか。さらにもっと一般的に時間というものを考えて欲しいのです。すべての人に平等に与えられている時間に付いて考えてもらいたい。テープは過去の時間とう永遠を。砂時計は今という瞬間も現している。瞬間という現在の時間を通過して過去となり蓄積されていく。未来という時間はどうしたら見えるのであろうか。目に見えない時間をここに来て、時間のおもしろさを味わって欲しい。子供から老人までがそれぞれの立場でそれぞれの時に考えてもらうことがこのミュージアムの主旨である。何度も何度もこの砂時計の下で考えてもらいたい。来ていただいた方とそのような時間の語らいができたら、楽しい時間が、人生の一ページがいや何十ページもの時間感ができあがることでしょう。私は特に子供たちが来てくれることを切に望んでいます。そして何回も来て欲しい。きっとそのたびに違った時間感が生まれると思う。ミュージアムの中身の変化ではなく本人の変化の方が私は大切でないかと思う。そのような心になってもらいたい。砂時計の砂は一度たりもと同じものではないのである。これも幾度となくミュージアムに来ることにより、砂と同じように前と違った心、考えになるのではないでしょうか。新しい心の流れの時間が砂時計の砂が流れるように止まることなく流れ、成長していくはずです。そのようなことが未来という時間かもしれない。

・・・砂時計の本-07//
1995年の砂暦
 94年の砂暦は大変であった。半年の段階でもうあと一カ月を残す程の流れになっていた。1995年の砂暦は、私の提出した最後のレポートにしたがって対策をとられてスタートし、4月まで順調に動いていた。私は4月から仁摩町に単身で赴任し砂暦を間近で見ることになった。砂暦の運転マニュアルを作り、後継者を作る方向での仕事が始まった。基礎実験をすることなくしての運転マニュアル作りは大変なものであり、頭の中でのトラブル想定を作ってマニュアルを作らねばならないことは難しい。
 週間チェックをはじめた。5年を終わったっ砂暦は少しずつ劣化してきた。8月にはポンプが故障した。
 流れは問題なく流れていった。12月の初期の終了予測は1週間ほど遅くなるという計算が出たので流れる量を修正した。1995年の最後を見届けたのは私ともう一人の心のなかの人とふたりであった。そしてその時間は私の腕時計では、12月30日午前7時28分55秒であった。この予測が30日の午前4時から午前8時の範囲であったので、この一年を振り返り、惜歳を感じ、惜別の念、出会いの喜びなどに浸りながら、私は午前3時半から仁摩の一念が終わるのを見届けるために、砂暦のステージに待機していた。         

§.幼馴染みと時間

 1996年2月28日夜8時58分、仁摩町に単身でいる私の部屋の電話のベルが鳴った。「もしもし、志波様のお宅でしょうか。」「はい、そうでございます。....」「林と申しますが...」美しい落ち着いた女性の声で、聞き慣れない声であった。また琴が浜の鳴き砂のことか砂時計のことでの打ち合わせの電話かと思ったがそれにしては遅い時間である。「林智子ですけども、覚えていらっしゃいますでしょうか。」「....」「三池のときの...」それは懐かしい人からの40年振りの電話であった。
 寒い山陰の冬の辛抱もあと少しとなってきた。夕方の日が暮れるのも少し遅くなってきている。もう三月である。三月一日はわたしの生まれ育った地の三池の初市であり、この時期になると、わたしはいつもこの市のことが思い出される。
 狭い道路の両脇には、俄の屋台が屋根をくっ付け合わせんばかりに並んだ。学校からかえると、母からおこづかいをもらって市へ飛び出した。市はいつも賑やかであった。通りを抜けるには大変な人で、簡単には目的のところには進めないほどである。本通りではなく遠道をして走って出かけた。大体毎年同じ場所に市が立っていたので、面白い店はよくわかっていた。小柄な私は、その出店の中を見るには背が大分たらなかった。しかし、その分、人ごみを掻き分けて前へ進み出るのは上手であった。人ごみの中から顔だけを出して、大道芸人の術を見ていた。蛇使いもいた。地獄絵を広げた、何だか恐ろしいことを言っているところもあった。
 市は私には情報の入手の場といった感があった。現代のようにテレビもなく、情報というか子供としての興味がそこかしこにあった。もちろん、大道芸人も非常に興味はあった。しかし、それだけではなく、ガラス切りがついているナイフ、音の出るブリキの駒、お菓子、植木、農機具、ざるなどの家庭用品など、すべてが新しいニュースだった。冬が終わり、「さー初市だ、新情報だ」と言う子供なりに何かを求めたいという市の期待があった。今、そのような昔を思い出した。毎日毎日テレビのスイッチを入れれば否応無しにいろんなものが見られる。必要とは思われない情報が飛び出す情報が本当に言いのだろうかと、いま、昔を懐かしく思い出してふと考えた。覚えているのは、学校の授業中は私の心の中は、市で何を見ようか、何を買おうかなどと考えていた、ことである。市は正月の次に来る楽しくて待ち遠しく、これが一年のスタートでもあった。新しい情報源として新しい道具やおもちゃは、私を夢の世界へ引きずり込んでいた。市は楽しかった光景をいつまでも思い巡らし考えさせてくれ、楽しい床の中であった。それはきっと短い々々時間でしかなかったかもしれない。夕方になると会社から帰ってきた父と一緒にまた、家族みんなで出かけた。小さな私は疲れ果ててすぐに寝込んでしまったはずである。待ちに待った市は短く二日で終わる。その店じまいがなされるのも、子供なりに寂しく見ていたものである。来年の楽しみというより、長い一年だと、だんだん少なくなっていく店を淋しい気持ちで一人で見ていた。「あ、あれも買いたかったなー、来年には買おう」なんて思って。そして一ヵ月くらいは市で買ったもので楽しんだ。そして毎年の市を楽しみに待っていた。ゆっくりとした情報であったが、それだけその年に得た情報やものを大切に温めていたようである。どうしても一年を待たねばなrない。今、考えると長い一年であるが、そのころは長いとは思っていなかった。一年という時間は自分の時間であり、次を待つ楽しみの時間でもあった。そのような市へ幼馴染みとよく行ったものであった。明日はそのような初市が開かれる。きっと人の出は昔と変わりなく多いでしょう。遠くにいる私たちは、昔とおなじ市を別々の地で思い出していた。
 40年ぶりの電話は幼馴染みからのものであった。私が8歳のときに私の実家の隣で生まれた女の子であった。私は電話の相手が名前を言われてすぐにその子であることがわかったが、電話の向こうのご婦人の顔が思い出されるはずはなかった。それは今、話しをしている言葉使いや言葉から想像をするしかなかった。そこには上品なご婦人が、幼少のころと交錯しながら、わたしのまぶたに浮かんできていた。わたしはいつのころからか彼女の兄に年賀状を出して、連名で智子様と記していた。一時期住所が変わり年賀が跡絶えていたが、智子さんに人生の別れがあって、昨年は年末年始の年賀お断りの挨拶状がきていた。それで私はそのお見舞と寒中お見舞を兼ねて島根の私の近況を知らせていたのである。
 電話は40分程続いた。40年の時間の流れは長い。しかし、智子さんと私は瞬時にして郷里に帰り、その時間の長さを忘れてしまっていた。そして郷愁の中に二人して浸っていた。40分という電話の時間もやはり長いかもしれない。しかしその時間も幼馴染みの二人にしては昔遊んだように短い時間であった。智子さんの記憶は時間を超え、正しく、幼少のころの情景が今かのようにはっきりとしていた。話しを聞きながら私も次第に時間と空間を超え、新しい記憶がよみがえってきて、郷愁の念にかられていった。
 幼馴染みからの電話は、わたしとしての懐かしさと、わたしも知らなかったもう一人の父を教えてくれた。そのころはまだ小学校に入る前の幼女であった。その幼女は「お父様がお母様の肩をよく揉んでやっておられましたね。厳格で優しいお父様でした」という思い出をも持っていた。わたしはその光景を思い出すことは今だかってなかった。そのような父の一面を教えてくれ、いまさらのように父の優しさが懐かしくなった。それと同時に智子さんが電話してくれたことに感謝せずにはいられなかった。そのような父親の姿を今になって知ることができたが、もう父親はこの世にいない。その感謝は智子さんにすべて差し上げねばならない。どのようは手段で挙げればいいのか判るはずがない。目に見えるもので差し上げるのもでもない。どんな言葉を使って、どんなに美しい言葉の贈り物をたくさんしても何にもならない。わたしは大変なものを智子さんに頂いてしまった。何とかしてこの頂きものへのお返しをしなければと思った。そう考えることもまた楽しい人生の一つである。新しい人生のスタートのようにも思えてきた。
 幼馴染みは時間が作ってくれるものである。いくら強力なコンピューターができても幼馴染みの時間というものを作ることはできない。そしてその幼馴染みという二人の宝物はだれも消すこともできない。巨大なコンピュータは、幼馴染みという思い出のソフトを作り上げるためにこつこつ溜め続けられた幼馴染みデーターも一瞬という時間よりももっと短い時間で消してしまう。何とはかないものか。幼馴染みという素晴しい出会い(電話だけの再会であるが)ができたということは、私にとっては、今までの人生としてこの上にない喜びとなった。このような長い時間でしかできない幼馴染み。度々会っていることも一つの人生かもしれないが、このように長く会わなかった時、何かのきっかけで瞬時にしてでき上がった二人の思いでは、やはり長い時間が経過した後で会うことがすばらしい。そこには目に見えない時間のよさというものがあるとわたしは思う。そこには一方的なものではなく、双方が同じような共通の喜びを持ち描いている。対自然との郷愁もあるが、やはり対人としての郷愁は素敵である。時間はまことに良いものを二人に与えてくれた。時間というものは二人に何をしてそのような素晴しい郷愁にしてくれたのであろうか。時間を大切にしなければらないということが、そのようなところにもあった。
                         1996年2月閏日
・・・砂時計の本-08//