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出合い付き合い

2002年の七夕で思うこと

<< 牽牛と織姫はどんな付合いをしているのだろうか >>

 
ネジバナ
ネジバナ

(1)ネジバナよ!とディスクに一輪差しが、、、

(2)今年の七夕にまた花を咲かせてくれるだろうか、ネジバナよ '99.1.27,Mozart誕生日

(3)庭先の可憐なネジバナよ-伊勢原



 

 出合いとか付き合いとは何だろうかと最近頭を悩ませていた。

 この二つの言葉はどこか似ているが、大きく違う。出合いを大切にしようとよく聞く。これは、付き合いを大切にしよう、ということではないかと思い始めていた。自分と相手があるのは両方とも同じであるが、

 

出合いは、時間的に考えると、瞬間であり、付き合いの入り口である。

付き合いは、時間の継続である。

出合いは、偶然も有り嫌であっても合う場合がある。そして付き合いが始まる。

出合いは時刻、付合いは時間であるとも言える。

 

仁万の時計草
仁万のウツボグサ
時計草(仁万):形が時計である

-萩市博物館勤務の方より名を知る-

ウツボグサ:弓矢を入れるカゴに似ているから(靫)

NHK「ニュースの視点」で、「付き合い」ということで、以下のようなことが、今日(2001.4.3)流れた。概要である。

 

『付き合いも年賀状的な付き合いもあれば、家庭の中の隅々まで知りたいという付き合いもある。深い付き合いから浅い付き合いというものであろうか。長く続く付き合いから短期の付き合いもある。

 付き合いが始まると、自分らしさ、その人らしさがみえ、自分というものが相手によって作り上げられていき、成長し成熟して人間形成がされていく。

 付き合いは、自分を消耗することが多いが、人を思いやる面もある。自分のスタイルを考えることもあるが、相手を生かすことのできるような付き合いが大切である。

 付き合いを続けるには、隔たりのある中で、趣味、思考、フィーリングの一つでも見つけあうことが長続きする秘訣である。成熟する付き合いになるには、時間が必要である。自己中心主義、個人主義ではもう付き合いは続かない。相手の時間を考え、無駄の時間と思える時間でも、この人なら長い時間をかけても惜しくないというような自分にならなければ、きっと続かない。

 安らぎと元気のでる付き合いをしたいものである』

-お茶の水女子大学教授:天野正子


 付き合いの難しさが、時間にあるということがわかる。真の付き合いとは何なのか、どうあるべきなのかということを考えると難しいもである。教授が云われているように、安らぎと元気のでる付き合いをする、まさしく同感である。

雫の向こうの私
カタツムリ
雫:その世界に入ったらどんな出逢いがあるのだろうか
カタツムリ(3cm位):昼寝の時間



 
長い安らぎの持てる長い付き合いを得るには、自我を通さない、相手のことが理解できる自分に成長することが秘訣。

 

 そして、このことを砂時計にたとえるとができると思った。

 付き合いの前に、出合いがある。出合いは、砂時計を倒置したまさしくその時であり、砂時計が止まることなく流れ続けることが、付き合いに例えることができると。

 

花と蜂
サフランモドキ
安心して蜜を吸っている蜂
サフランモドキ:ヒガンバナ科

なるほど、ヒガンバナのように、花が芽が先に出ていた!


 今日は2002年の七夕。ふと以前に考えていた出会いと付合いのことを思いだした。牽牛と織姫は、どんな付合いをしているのだろうか。一年に一度逢うというけど、それもロマンであるが、日ごろのお付合いはどんなものであろうか?遠くにいて相手を思いやることが、お付合いなのだろうか?

 

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