琴ヶ浜の一日

-浜の観測祭り-

 

平成13年10月14日

 

 

釣鐘人参


 平成13年10月13日、いい天気でベランダに布団をほしていたら、久しぶり(3週間)に健ちゃんが私のうちを訪ねてきた。「志波さん、元気ですか。今から琴ヶ浜に行ってこうようと思って、、、。仕事がちょっと少なくなったので、今日も休みです」「そう、ちょっと上がる?」「はい、じゃ、お邪魔します」

 今度の馬路の文化祭なんだけど、全国鳴り砂サミットとかち合ってしまったよ。サミットへの参加の予算はないと言われていたし、また私が行くとも思っていなかったんだけど、サミットに出席することになった。だから、馬路の文化祭は、申し訳ないけど、よろしく頼むよ。それまでに準備するから、分担してやろう。一昨年もそうだったから、何とかなるでしょう」「そうですか、それは残念ですね。馬路の人の話を聴くのも楽しいですからね」「そうなんだよ、私も、馬路の文化祭は楽しみにしているだけどね。「サミットの発表は、5,6分だから本当の概要だけしか話せないし、、、それでも、何らかの情報は得られると思うけどね。科学的な発表は、仁摩町だけだと思うよ。最近は、どこも科学的な鳴り砂の調査はしていないようだしね。これだけの地域の人たちが一ヶ所に集まるんだから、何とかネットワークを作って科学的な調査研究をしたいもんだけどね、、、」「そうですよね、琴弾浜など、どうなんですかね」「う〜ん、あそこは、やっていないでしょう。浜の清掃とか、清掃キャンペーンなどはよくやって、浜を守っていると思うよ。

 むかし、宮城県とかイタンキ浜などでは、地元の先生がグループを作って相当に研究されたようだけどね。現在は、基礎研究はなされていないようだね。仁摩も30年前くらいは、仁摩中学校がいい研究をしたよね。また、大田高校の先生もやっておられた。大田高校は物理の先生で、詳しく音の解析をされていたね。昨年まで邇摩高校の校長先生だったけど、もう退官された。

 「最近は、山口県油谷町の油谷中学校でやっているよ。時々私のところにメールが入ってきて、文化祭などで発表しているとか。指導の先生は、どうも専門が地学のようで、また、粉体工学と違った目で鳴り砂を見られると、面白いまとめが出来るのではないかと、期待しているんだけど、、、。ひょっとしたら、その文化祭の様子などのビデオが送ってくるかもしれないよ。メールで先生がいわれていたし、楽しみにしているんだけどね。」「そうですか。他の方が熱心ですね。仁摩の宝物は、やはり鳴り砂ですよね。」「そうね、、、ミュージアムはそれをシンボルとして立てられているんだから、これに力を入れるべきだと思うんだけど、、、どうも、そのことは理解されていないようだね。こうしてやっていると、益々鳴り砂が珍しいだけではなく、貴重な自然の宝物だと思うんだけどね。何に鳴り砂を研究しているというのではなく、本物の自然が持っている不思議さというか、雄大さとか優しさとかときには恐ろしさなどを教えてくれると思うよ。それを教えてくれるのが鳴り砂だ、琴ヶ浜だと感じるね。そんないい場所があるんだし、これをやらない訳はないよね。我々だけでも、それを忘れずに続けることだね。きっといずれ時か、だれかが共感してくれるときが来ると思うね。継続は力なりというから、まーそれを信じていくこと、これしか今はないよ。」「僕も、琴ヶ浜の傍でプレハブでもいいからそこでやりたいですね。」「そのうち実現するでしょう。馬路の文化祭も今回で、4回目だもんね。今年は結構ネタがあるよね。大田土木や24時間調査、、、長崎や佐賀県の鳴り砂の再発見の報告、山口の油谷町の鳴り砂の浜の発見、イギリスのイゾベルさんのこと、、、。冊子も今年は、24時間のことを出そうと思っている。もう少しで出来上がるけど。それをCDにして、みんなに配ってみたいね。仁摩も大分コンピュータが普及しているから、いいと思うよ。CDだと、冊子と違ってさらに音が入れれるから、貴重な資料となること間違いなし。しかし、Windowsがほとんどだろうから、しれは、PDF ファイルにしてやればいいからね。」「たのしみですね。僕は何をしましょうか。」「まずは、微小貝。これの写真を出すことだね。何か新しいものはあるかな?」「去年のものですね」「そうか、それでもいいから出そう」「体験コーナーで、水中鳴り砂を出したいんですがどれにします。」「あの、中くらいの大きさのものと、榎本さんの時のハミングサンドを出したらどうかな」「一番大きなものもどうですかね。」「そうね、3種類並べるか」「乾式のものもだしますか」「そうだね、これは鳴り砂の基本だから毎年同じかもしれないけど展示しよう。各県のものがあると面白いだろうけどね、、、。」「そうですよね」「パソコンは今回は持っていかないことにしよう。マックはダメだね。ウインドウズが使えるなら、全国鳴り砂探索のCDだけでも持っていけるけどね」「ノート型ならいいんでしょうけどね。こんなときはそれがほしいですね。僕はディスクトップを買います。今度の土曜日に行こうかと思っています」

 「出展の資料が沢山あって会場が狭いくらいだろうね」会場の配置を考えたり、準備の分担をした。「ここら辺に喫茶コーナーがあるといいですね。」「そうだね、この壁に、馬路に咲く草花の写真を飾るか、、、。でも、ちょっと喫茶という場所はとれそうにないね」

 「定点観測はしている?」「え、写真を撮っています。実は、今日は久しぶりに写真を撮りに行こうと思っていたんです。写真から砂浜の広さが読み取れないですかね。」「う〜、ちょっと難しいかな。それなら、明日浜に行って巻き尺で実測してそれを写真撮ってみるか。それが早いよ」「そうでですね。では明日は何時に行きます」「9時半くらいはどうかな」「いいですよ」

 

 9時半にチャイムが鳴った。健ちゃんが予定時刻にやって来た。私はまだベッドの中で、そのチャイムで起こされた。月の観察でベッドに入ったのは6時だったのである。ドアを開け「おはよう、入ってよ。」洗面して、今日も天気が良く布団を干した。、巻き尺、カメラ3台にフイルム、接写架台、三脚、ナイフ、鋸、ゴムヒモ、、、。

 今日は暑くなりそうで、半袖で出かけた。家を出たのは10時を少し過ぎていた。天河内の坂の山陰本線側の土手で竹を切った。長さを120cm位に揃えて12,13本切り、自転車にゴムヒモでくくり付けた。

 浜を進んでいると自動車が後ろから来た。その車は私の横に止まった。「志波さん、どこへ?」「え、網屋まで、、、」「そう、今日はお祭りで、寿司を作ったのでそこで待っててください」中秋の名月をやった時の松浦さんである。家はこの浜の外れにある。その場所のところで測定をするのである。

 早速浜に降りて、巻き尺を延ばす。堤防から直角に浜に進むために、予定していた寸法をとる。10m,20m,17.32m、直角の寸法である。(今、思い出したが、それには3:4:5でとれば簡単な数値で、直角が出たんだ。計画の時はその数値を思い出せなかった。)

 切ってきた竹を直角に引っ張った巻き尺の10mごとに刺して立てる。柿を採る竿のようにその先端を割って、健ちゃんが用意してきた白い布を挟んだ。ちょっと小さく思えた。「これで見えるかな。白だし、浜の色に消えるかもしれないな、、、」浜を見渡し「健ちゃんあの赤いのを付けよう。拾ってきて」20mのところにこれを着けた。浜の幅は40mを少し越えていた。ここに笹が付いたのを立てる。区切りの目印とした。もう一つの位置にも竹を立てることにした。

 その時松浦さんがタッパウエアにいれた寿司を持ってきてくださった。「おいしいかどうか少しだけど」「ありがとうございます」日陰に置いて、直ぐに不足した竹を松浦さんの家の庭を通って切りに行った。長い竹を数本切って、引きながら浜に戻った。途中、娘さん夫婦に合う。ご主人はロシア人である。簡単な挨拶をした。

 「健ちゃん、ちょっと見てみるか。」「僕が行ってみます」定点観測の遠くから見ている健ちゃんの様子はどうも反応が良くなかった。私も行ってみることにした。やはり白い旗は見えにくかった。「赤はいいね。健ちゃん、目印を砂の表面に置いてみるか」「そうですね、僕がやってきます。」その間わたしは、その定点観測の位置の枝を落とし、簡単な通り道を造った。

 大きな発泡スチロールでも見えなかった。昼のチャイムが鳴った。デジカメで何枚かの浜の写真を撮って、浜に戻った。

 「健ちゃんお昼にするか」「ぼく、お茶を買ってきます」「そう、ありがとう、頼む」

その間に、記録写真を何枚か撮った。

 弁当のフタを開けて驚いた。「や、健ちゃん、この花、茜だよ。家で見せたあの花!だよ」「や〜」健ちゃんも驚いた。私はなんという出会いなのであろうかとこの不思議を巡らせていた。ここ数日、この花の出会いがあり、接写でにたこの花の美しさに魅かれていたのである。自然の草花の何ともいえない魅力。人工的に作られ改良された花には、わたしの目は行っていなかった。そのことがまた驚きの会話になるとは思いにもよら

なかった。

 写真を撮った。自動で二人が防波堤に座って食べている様子も撮った。食べるのがもったいないようなきれいな寿司であった。「これは馬路の宝物ですね」「そうだね。一番心の温まることだよね。」これも鳴り砂の自然の宝物なのだろうかと思われた。生きているということがきっとこんなことなのかもしれない。都会でこのような出会いが出来るであろうかと思わずにはいられない。

 食べ終わって旗を方付けることにした。時刻は1時半近くになっていた。神輿は友から1時半に出ると聞いていた。そこへ急いだ。しかし、舟津近くに来てもその様子がうかがえなく、神輿はもう行ってしまっていた。急いで郵便局の方へ行く。郵便局の前にはお年寄りや警察の人が神輿を待っている。「神輿はどこへ行ったんですか」警察の人に聞いた。「どこから来た」「仁摩です」「もう終わったんですか」「ここへ戻ってくるよ」らちが明かない。松浦さんのところまで行って戻ってくるということも聞いていたので、急いで行った。丁度戻ってくるところで、急いでカメラを出してその様子を撮った。道幅ぎりぎりの神輿である。どうして回転したのであろうかと思えるほどであるが、もう、向きは変わって、動き始めていた。神輿は私の前を通過していく。先回りをしようと思ったが、それは自転車では無理だった。志波さん、牽きんさい」顔見知りの方が誘ってくれた。「健ちゃん、自転車を置いて、見よう」これでは記念写真は撮れないと判断し、先回りして郵便局前の空き地に自転車を置いて祭りを見ることにした。

 神輿は、通りの浜に出る交差点のところに止まって、小さな環を作って踊りが始まっていた。丁度、いいのや民宿(以前)のおばあさんが玄関先に出て見ておられた。「こんにちわ、、、」「健ちゃん、久しぶりだね。元気だったかいね」「はい、、、久しぶりですね」「脚立を貸しましょうか、、、」「、、、二階を貸してもらえませんか」「そうだね、どうぞ」私は急いで二階に上がって窓からその様子を健ちゃんと二人で撮った。動き始めていて、デジカメでのシャッターチャンスは2枚ほどしか撮れなかった。これはデジカメの欠点である。

 直ぐに降りていった。「志波さん、お寿司を作っているから、帰りに寄りんさい」「はい、ありがとうございます」ちょっと牽き綱を牽いてみた。以外と重たく感じた。小さな力の集まりがこの神輿を動かしていることを感じ取ることができた。

 郵便局の前で一休み。また、踊りが始まった。わらじの上に乗って記念写真である。子供会、池月会、郷和会の人たちがそのわらじの神輿に上がる。その様子をデジカメに収めた。誰がカメラマンというわけでもなく、集まっていた。「志波さん、頼みますわ」俄のカメラマンになってしまった。NIKON Fで記念写真を撮った。ちょっと、不安もあった。カメラは、つい最近修理をしたばかりなのである。新しいニコンのカメラを買ったほうが安かったというほど、高い修理代であったが、、、。

 松浦のおばさんも踊っておられた。休憩の時、お寿司のお礼を言った。「驚きました。寿司の上に茜の花が飾ってあるではないですか。最近,私は野の花を撮っているんですよ。その花は、茜っていうんですね。つい最近知りました。」「そう、私たちは、コンペイトウって、いってます」なるほど、形はその通りである。「あれは今ごろが満開なんですよね。畑に咲いていたので、ちょっと載せてみたんです。かわいいですからね。でも、直ぐにしおれてしまうんですよ。酢がかかっているでしょう。そでもあったほうがきれいだしね。毒があったらいけんけど、、、あれはないです。春の場合には、山椒の葉を載せるんですけどね。」「いや、おいしかったです。何よりもその花の心は格別でした。」「草花はいいですよね。見てても飽きが来ないし、私は大好きですよ。大岩のところには、白い粟みたいな小さな花がありますよ。あれは普通に見かけるのはピンク色なんですけど、白は珍しいですよ。一度見に行ってみなさい。」野の花は見てても飽きないという松浦さんの話しに私は感動した。全く私もその意見であり、写真を撮っていて、いつもそう思っていたのである。その言葉を聞いて、うれしかった。「そうですか、あれ何といいましたかね、、、粟みたいな小さなものです。分かります。先日図書室で調べたんですがね、、、。」(大毛蓼、おおけたで)「リンドウみたいなそれよりちょっと大きな花(釣鐘人参)が咲いているではないですか、あの展望台へ上るところに。」「え、あれもきれいですよね。白いのもあるんですよ」「そうですね。」

釣鐘人参(白)
大毛蓼(おおけたで)


 「志波さん、ビールの飲みんさるかね」「ありがとうございます」小さな缶ビールを戴き一気に飲んだ。走り回ってのどが渇いていたのである。郵便局の向こうの山陰本線のトンネルが気になるような大きさの神輿は動き始めた。私は先にトンネルを通って神輿の通過を待った。「どこからきんさった」ビデオを撮っている人が話しかけてきた。「仁摩です。大きなわらじですね」「いや、あれはわらじではないんね。」「、、、?」「”はんなが”といって、作業の時に履くもので、わらじは、旅に使うもので、草履も遠くに行くときに履くもの。わらじは、こうして回してヒモをかけるけどはんながは指に挟んで、、、」よく使い方が分からなかった。そうしているうちにトンネルと神輿が通過してきた。今の話しでよく見てみたが、そのことはよく分からなかった。

 乙見神社に通じる道に入っていった。私は、この風景を思い浮かべていた。そして急いで行列の先頭に出て、さらに国道9号の土手に上って全体の雰囲気を撮ろうと急いだ。リュックと首に下げたカメラ2台が走るのに邪魔な動きをした。土手に上り、振り返ってデジカメを切った。ちょっと先回りした若い都会からの女性だろうか、カメラを構えて神輿を待っていた。国道9号に出てさらに全貌を撮った。田舎風の祭り風景が撮れたはずである。9号の下を通過した神輿の白姿を、今

郵便局の前の道路で、、、

度は国道9号の向こう側からとった。次はそれを追わなければならない。次のチャンスは、乙見神社の階段を登る神輿である。何とか早くその道にでなければ、、、。そこへ降りる道を9号線の上から探した。道らしい道は見つからない。それらしきところの薮には入っていって、茂る葛の張る土手を無理やりに入っていった。バラの蔓に行く手を阻まれ、ちょっと迂回する。小さな竹の中を押し分け畑に出た。そこには茜がきれいに群生して咲いていた。写真を急いで撮って、やっと道に出た。靴は、ぬかるみにはまって靴下がびしょびしょになってしまった。そんなことは気にしていられない、駆け足で追った。しかし、息が切れて思うように走れない。汗が噴きだし、途中息を整える。益々汗は流れ、眼鏡を濡らした。やっと追いついたときは、もう神輿が到着する間際であった。道いっぱいの神輿の横を通って、鳥井の階段を注意深く登った。この幅なら、写真を撮るのに邪魔になるであろうと、手すりをまたいで土手で神輿を待った。しかし、いくら待っても上がってこない。おかしいと思いながらも待っていたら、皆が上がってきた「志波さん、今年は神輿は上がらんけね。昨年ケガが出たんで、、、」がっかりした。最高のクライマックスかと、その様子を想像して待っていたのに、、、。

 皆が境内の本殿に集まって、慰労が始まった。そして、舞台では石見神楽が、笛、太鼓、鐘の音に合わせて始まった。子供たちは思い思いの場所で、割当だろうか、お菓子の袋を手にして神楽というかお祭りの雰囲気を楽しんでいた。のどかが沸いて、ジュースを2本買う。しばらくその

背後は、琴ヶ浜
奥は、乙見神社

雰囲気を写真に収め、境内に座って眺めていた。汗が引き始め寒さを感じるほどになってきた。

 おなかが空いてきた。境内では、焼き鳥のいい匂いが漂っていた。それにひかれ、焼き鳥を買う。10本、400円なり。健ちゃんと境内の縁側に座って食べた。チラホラと帰る人も出始めた。家に帰って、測定した琴ヶ浜のことも気になっていたし、いいのやのおばあさんのことも気になっていた。「そろそろ帰ろうか」健ちゃんも手持ちぶささのようであった。

 石見神楽はまだ盛んに行われていたが、帰ることにした。歩く足が疲れているのが分かった。急な土手の上がり下がり、めったに走らなかった今日の神輿との競争、砂浜での長時間の調査と道作りと、大変な運動の一日であった。睡眠不足もあって、疲れが出てきているのが、歩きながら感じられた。遠くに琴ヶ浜が見える。4時を過ぎたくらいの時間であるが、振り返ると、山深い乙見神社の森は、影がかかってきていた。緑が深く、その光景を見て、「あ〜これが本当の村祭りか、、、」何かホッとした気持ち、今まで経験したことのない安らぎとでもいうような安堵の気分が私の中に走っていた。下る山道の背後から、神楽の響きが絶え間なく聞こえて来ていた。これこそが、あの村祭りの歌であった。小学校のころよく音楽の時間、歌っていたあのころを思い出した。

村の鎮守の神様は、今日めでたいお祭りだ、どんどんひゃららどんひゃら、どんどんひゃららどんひゃら、村から聞こえる笛太鼓

そして、母が料理をしながら、この時期になるとこの歌を口ずさんでいたころを懐かしく思い出させてくれた。

 「いいね、健ちゃん、、、」「こんな雰囲気はどこにもないですね」二人して自転車を置いている郵便局のところへ急いだ。「あそこが診療所跡だろう。あそこに、鳴り砂展示場ができそうだね。「前教育長が、”お願いがあります”と先ほどいわれていたからね。なんだか、あそこを馬路の資料館のようにする計画が持ち上がっているようだね。鳴り砂の展示をしたり、馬路の鏝の道具を展示するというふうな、資料室にしたいようだよ」「えっ!そうですか。それはすごいですね。常設展示ですかね」「2階にそのような場所を設けるとか、、、。誰か、管理人が入られるかもしれないね。そうなると、鳴り砂のことをもっと宣伝できるし、我々もやりがいが出るよね」「うれしいですね、そうなるといいですね。馬路に来た人はそこでお茶など飲みながら、鳴り砂のことなど話ができるんですかね。コンピュータを置いて、説明したりできたらいいですね。志波さんがそこの館長さんになって、いろいろ説明するというのはどうですか、いいじゃないですか。鳴り砂研究所ですね。夢が適いそうですね。」「そうね、、、ま、焦らず、もう少し待って、状況を見ることだね。」

 途中に、おばあさんが3人足を出して休まれていた。「こんにちわ」5,6年前古龍に案内してくださった船原さんたちであった。「年取ると疲れるよ。あんたさんはどこからきんさった」もう一人のお年寄りが聞いてきた。「神奈川です」「仁摩です」」「へ、どうしてこんな田舎にきんさった。都会がいいでしょうに、、、こんなとこ年寄りよりばっかりで、年寄りと話していたって、おんなじことばっかりいって生もないで〜」「いいえ、知恵をもらっていますよ〜」「そうかい、、、」ちょっと長話をした。

 いいの屋さんを訪ねた。「お帰りんさい、お疲れさんでした。まだ、神楽はやっていたでしょう。薄暗くなるまでやりますけんね。これ家で食べてさい」階段の横に、健ちゃんを私の分のお寿司が袋に分けておいてあった。「ありがとうございます」健ちゃんもお礼を言った。

 「おばあさん、あれは”草鞋”じゃないんですね」「あ、あれは”はんなか”というて、海に出て岩を渡るときに、滑らないように、足のここまでしかないんです。足の裏全体で、岩の上を歩くと滑るからね。足の半分しかないんですわ。だから、”はんかな”っていうんですよ」「疲れました。神輿の前後ろを飛び回って、、、」「そりゃ、ご苦労さんでしたね。今晩はゆっくり休みさい」「はい、、、」「おかあさん、志波さんに、一憲のアドレス教えてよ。王さんに連絡してもらうようにお願いしてもらおう」「はい、何でしょう」「一憲が今度北京から上海へいきますから、王さんに合おうというんで、住所を聞こうおもいまして、、、。」「あ、そうですか、直ぐに王さんにその旨をメールしますよ」奥さんが、携帯に入っているアドレスを見せてくれ、メモを取った。「どうもありがとうございました」玄関先まで出て我々を見送ってくださった。「また、寄りんさい。健ちゃんもたまにはきんさいよ」「はい、ありがとうございます」

 ちょっと、馬路の坂道がつらかった。天河内の坂にたどり着くと、もう家に付いたようなものである。後は下り坂である。 

 「家にちょっと寄るかな」「はい」姉が送ってきてくれていた梨を向いて食べた。早速、デジカメで撮ってた写真データをコンピュータに取り込んだ。「あ、やっぱり、奥のポールは見えにくいね。この位置は全く見えない」「そうですね。でも赤いところはみえるし、最後の笹のところもよく見えますね。他のところも何とか見えるところもありますよ」「そうだね」10mごとの距離を、コンピュータ上で測ってみた。「あ〜これは、だめだね。海側に郁にしたがって、狭くなっているね。これでは階段の幅を基準にして測っても、正確な距離は出ないことになるわ」実際にそのスロープを基準としては狩ると、汀線までの距離は、44mほどあるのが35m位にしかならない。「ダメですか、、、」健ちゃんはがっかりしていた。「しかし、浜が狭くなったら、写真ではそのことは何となしに分かるわけだから、今あきらめることはないよ。もうすこし研究してみよう」「、、、」「一番正確なのは、実際に計測することだね。浜に30m位のところに杭を打っておくか。そこから、測れば楽だしね、、、」「でも、掃除の時に外されたりしないですかね」「そうだろうね。ま、一番正確なのは、行ったときに計測することだね。それをどうするか考えることかも、、、」「、、、」「その辺のことは次にしよう。今日はこれくらいにしようか」「はい、今日はお疲れさまでした。失礼します」「お疲れさま」健ちゃんの顔は、赤く日焼けしていた。

 カメラを清掃して、戴いたお寿司で夕食とした。巻き鮨、箱寿司、それにてんぷらのおかずが二つの容器に分けてあった。箱寿司には山椒の葉っぱが丁寧に載せてあった。魚の油揚げが久しぶりにおいしかった。疲れが出た。風呂にゆっくり入って、床に入った。2時を過ぎていた。目覚ましを5時10分にセットした。

いいのやさんからの寿司 5時に目覚めた。真上には星がみえていたので、これはと思って東の空を見たが残念ながら、16日、つごもり月は見えなかった。どんよりと温かかった。あんなに天気が良かったのに、、、。よく見ると、あの星も見えていない。曇っているのかな?部屋に戻って、つごもり”と広辞苑で引いていた。「月が隠れて見えない状態の月」と出ていた。「う〜そうなのか」と理解したつもりであったが、それでは新月とはどう違うんだと、頭を悩ませてしまった。もう一度、カメラをもって外に出てみたが、やはりだめであった。曇っているんだと、あきらめて、またベッドに潜った。

 電話で起こされた。「竹下ブリキですが。風でもひきんさったかね、、、」起きたての声はかすれていた。「いや、今起きましたんで、、、」「毛ガニが捕れたんで持っていこうかと思ってるんですが、、、」「え〜それはありがとうございます」「夕方そちらによりますけ」「はい、ありがとうございます」11時を5分過ぎていた。こんなに寝たのは仁万に来て初めてであった。祭りの疲れがまだ残っていた。